2015/07/12
その他, 関翔一インストラクター
こんにちは! 火曜の指導碁を担当しています、関翔一です。
私はお酒が大好きです。
お酒と囲碁、どちらをとるかと言われたら、そうとう迷ってしまうくらいお酒が好きです。
お酒そのものの味が好きなのは勿論のこと、お酒を通じて楽しいコミュニケーションが
生まれるところがいいですね。
囲碁の仕事をするきっかけもお酒でできた縁ですし、
最近、フェニックス川崎に誘っていただき、一緒に団体戦を戦っていますが
(インストラクターでは初?)、お酒を飲みながら飲みつつお話したり、囲碁をしたり
ゲームをしたりという、居心地・飲み心地がとてもよかったのが理由です。
自分の行動のすぐ隣に、つねにお酒があるような、そんな人生を歩んでいると思います。
さて、そんな私の生活を揺るがすような事件が起きたのは昨年のこと。
ちょっと病気に罹ってしまいました。
そちらはすぐに快方に向ったのですが、お医者様からの通告が・・・
「二週間の禁酒」
だったのです。
予想していたとはいえ、いざ禁じられてみると、なかなかショックでした。
お仕事を終えたあとに、自宅でネットサーフィンしながら飲むサッポロ黒ラベルが、
あんなに遠いものになるだなんて。。。(>_<)
その二週間、街の景色が違ったように見えたことを、今でもよく覚えています。
商店街の居酒屋のビールの看板が、楽しげに私を見つめてくるようです。
後ろ髪をひかれながら、コンビニでコーラを買ってお家に帰る日々でした。
とはいえ、ノンアルコールな生活もなかなか新鮮なものでした。
ミネラルウォーターを何種類か買って飲み比べたりして、水が好きになったりしましたね。
ちょうど二週間たった、あの日。
吉祥寺の西友で、キリン一番搾りの一番小さい缶を買って飲んだときの味は一生ものでした。
25歳にして早くも、お酒が飲めない生活を経験してしまい、より一層お酒がおいしい
今日この頃です。
長生きして一生おいしくお酒を飲むために、健康に気をつけながら生きていこうと
思いました(`・ω・´)
2015/01/24
その他, 関翔一インストラクター
みなさんこんにちは、こんばんは、おはようございます。
火曜日の昼、夜の指導碁を担当しています、関翔一です。
初のコラムということで、やはり自己紹介から!
囲碁とは小6以来の付き合いで、もう13年になります。
きっかけは「ヒカルの碁」。
気づいたときには「院生」になれる年齢を過ぎていたのですが、せっかくなので本気でプロを目指そうと思い、つまらなく思っていた高校を中退。
外来でプロ試験を受けました。
「ヒカルの碁」でいうと、ヒゲの椿さんのポジションですね(笑)
しかし試験では、勝てずじまい。
プロになるのは友人や若い子たちに任せ、高卒認定をとって大学受験にシフトしました。
久々の英語に苦しみつつも法政大学になんとか合格。
選んだ学科は、あえて、何の予備知識もない「哲学科」でした。
お酒との運命的な出会いを果たしたこともあり、囲碁はちょっとお休みしまして、
アルコールと哲学と散歩に四年間を費やしました。
初めて飲んだ時から、ビールが特に好きで好きで、本当に好きです。
最近では海外や、日本各地の地ビールの味も知ってしまい、抜け出せなくなりました。
20年後の体型がとても心配です(笑
飲み会に行かなかったら出会えなかった人々と出会えたのも、とても嬉しいことでしたから、
お酒はやはり一生の友達、いや悪友といえそうです。
卒業後は、縁(お酒による)あって入門教室のインストラクターを始めることができ、
また囲碁の世界に戻ってきました。
選手をしているだけでは気付けなかった魅力を発見でき、今が人生で一番、
囲碁が楽しい時期です。
みなさんと一緒に、囲碁をもっと面白くしていけたらいいと思っています。
棋風は中央重視、だいたい腕力だけでなんとかしています。
黒でも白でも初手は絶対に5の5。
5の5で天下をとるのが目標の24歳です。
よろしくお願いします(^O^)
今回のテーマは「お気に入りの場所」ですね。
散歩が好きなので、いろいろな場所に行きましたが・・・。
一番を挙げるとすれば「自分の部屋」。
世界で一番素敵な場所だと思います。
どんな部屋かといいますと、かなりの量の
「積ん読」
をしてあります(笑
本を買っても結局読まないで、とりあえず「積んどく」。というアレですね。
いやあ、この本の山を全部読もうと思ったら、何年かかるのでしょう。
哲学の難しい本多いし・・・(>_<)
しかも私、たくさんの本を読む人ではなく、興味が向いたときにマイペースに読む性格なので、なおさら消化できません。
でも、それがいいのです。
私は哲学的なテーマについて考えるのが好きです。
大学の哲学科に入って、教授と話したり、本を読んだりしながら、
目の前にあるものは本当に存在しているのか?
存在とはなんなのか?
世界は無限に続いているのか?
私が死んだら私はどうなるのか?
などなど、考え始めました。
たとえ分からなくても、考えていきたいような、そんな気がしたのです。
分からないなりに考えて、何か分かったような気がするのですが、
でも結局また分からなくなって。
でも、やっぱり考えたくなってしまいます。
そうして、今、結局何も分かりません。
しかし、そうこうしているうちに、私の考え方や、目の前のものの見方を、
一気にひっくり返してしまうような本に出会えることがあります。
そのような体験が私はとても好きなのです。
一冊だけ挙げるとすれば、18世紀ドイツの哲学者、カントの『純粋理性批判』。
(内容は、長くなるのでここでは省略・・・。ぜひお読みください。)
目の前のものを、私がどうやって、どのようなプロセスで認識しているのか、
すとんと腑に落ちる形で呈示された気がしました。
それも、正しいかどうか、私にはわからないのですけどね。
この本は、3か月かけてじっくり一文ずつ読み、それでも(それゆえ?)
まだ最後まで読み切れていません。
ですが読み進めていくうちに、どんどん自分の世界が変わっていくような感じがしました。
実は、こうした私の読書体験の多くが、「積ん読」によるものでした。
『純粋理性批判』にしても、読みたくて仕方がないから買ったわけではなく、
大学一年の時に、神保町の古本屋で100円くらいで買ったものを、
大学三年の時になんとなく、読み始めたのです。
買った当時は、「こんなつまらなそうなもの、読む気がしない」なんて思いつつ、
それでも一応買っておきました。安かったので(笑
ですから、全く予想もしていなかった方角から、石が飛んできたような感じなのです。
私の部屋には、他にもたくさん、そういった古本を大量に備蓄してあります。
特に読む予定のない、中央公論社「世界の名著」シリーズの紫の表紙が
ずらりと並んでいる様は壮観です。
神保町やブックオフに足繁く通い、自分で買い集めておきながら、
何冊読破できるのか全く予想できません。
しかし、この本たちの中からまた、私の頭の中身を壊したり、
つくり変えたりしてくれるようなものが、きっと現れることでしょう。
そしてそれは、今の私には思いもよらないような、意外な本なのかもしれません。
私の部屋は宝の山だと思います。
そんなことを考えながら、毎日この部屋で眠りにつくのです。
それでは、おやすみなさい。