石音インストラクターブログ

2015/11/29

囲碁教え方, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『思いのまま打つ』

ついに、根本席亭の本が出版されます!
皆さんより一足先に、席亭より直々に本を頂いて読んでみました。
ん?私の話が出ているじゃないの~。ああ、あの話ね。根本さん、覚えてたのね。
ということで、元ネタのエピソードを今回はコラムに書いてみました。

題名「思いのままに打つ」

あるカルチャー教室でのこと。碁をはじめて一年ほどした生徒さん(年配の女性)が、
私に相談があるというのです。
「囲碁は面白いけど、ちっとも上達しない。せっかく教室で習っているのに、一向に
上達しないなんて、私、碁の才能がないんじゃないかしら。もう教室やめようかな」
急な告白に、私は言葉を失いました。彼女がそんなに苦しんでいるとは、思いもしなかった
からです。その時私の脳裏に、対局中に懇々と考え込んでいる彼女の姿が、ふと
浮かびました。
「そうか。彼女は碁を楽しんでいたのではなく、苦しんでいたのか」と、その時はじめて
気づきました。まあ、ダメな先生ですね。しかし、相談に来るということは、まだ望みは
あるはずです。囲碁は面白いと言っているし、上達したいということは、裏を返せば碁が
好きだと言っているわけですから。この方は、私からの的確なアドバイスを望んでいる
のだ、と思いました。
そこで私は
「あまり色々な事を考えずに、シンプルに自分の打ちたい手を打ってみてはどうですか」
と言いました。とりあえず、対局中のあの辛そうな時間から、彼女を解放してあげたい。
そんな思いから、このようなアドバイスとなったのですが、正直効果があるのか
どうだか・・・。

それからです。彼女の様子が見違えるほど変わったのは。
今までは長考派で、かなり慎重に打っていたのに突然、小気味良く着手が早くなり、
以前彼女から感じられた対局中の息苦しさが無くなりました。表情も明るくなり、まるで
この世の春が訪れたかのように、自由を楽しんでいます。変わったのは様子だけでは
ありません。何と囲碁が上達しはじめたのです。一体、彼女に何が起きたのでしょうか。
私は彼女のある変化に気づきました。それは
「悪い手をたくさん打てるようになった。」ということです。
良い手を打てるようになることが上達だと思っていた私には、正直驚きの発見でした。
「良い手を打て」と教える指導者はいても、「悪い手を打て」と教える指導者はいません。
良い手ばかりを打たせようとする今までの私の指導法は、どこか間違っていたのではないか。
そして、どう打てば良いかという「答え」だけを求める生徒さんの学習姿勢にも、
何か重大な落とし穴があるのではないか。そう思った私は、さらに彼女の変化を深く
考察してみることにしました。

どうして悪い手を打てるようになったら強くなったのでしょうか。
普通、悪い手を打てば碁は負けるので良くないことのはずです。それなのに彼女は明らかに
上達した。私のアドバイス「自分の打ちたい手を打ってみる。」に従い、彼女は自分の
思いのままに碁石を置くようになりました。そうすると、見たこともない奇妙な形
(愚形とも言う)や定石や手筋にない手が、盤上にたくさん現れました。それらは、
人や本から教わった「知識の手」ではなく、彼女の意思が生んだ「考えた手」だったのです。
自分の思い通りに打つことで、大げさに言えば自身の囲碁観を盤上に表現できるように
変わったわけです。その表現が多少まずい「悪い手」であっても、自らの考えで
打たれた手であれば、何が悪かったのかを体験的に理解できるようになったのです。
その理解は、本の解説を見て覚える表面的なものではなく、自身の内面から湧き出てきた
より深いもののようです。そして、悪い手を体験的に理解す ることで、その反対の
良い手を暗記ではなく自分の力で導けるようになったのでした。

得てして大人は結果を早く求めたがります。失敗しないでどうやって事を成すか、
上手くいく「答え」だけを知りたがります。そしてその教えをマニュアル化し、
どの局面でも判を押すかのように繰り返します。下手をするとマニュアル通り打ってこない
相手に対し、「それは定石ではない」などと言ったりして。
一方、指導者も「答え」を教えることが良い指導法だと勘違いし(以前の私もそうだった
が)、知らぬ間に答えを覚えることを生徒さんに強要してしまいます。暗記することを
義務づけられた生徒さん達は、覚えられないことに落胆し、自分は囲碁に向いてないと
思うようになるわけです。これは両方にとって不幸な話です。

どうやら囲碁は覚えるのではなく、考えて体験してみると良いようです。そもそも囲碁は
人に教えてもらうものじゃないのかもしれません。と言い切ると、私の仕事がなくなって
しまいますが。それは置いといて、囲碁は自分で考え体験し学んでいく自ら創造する
ゲームだったのです。
いや、ゲームというより芸術に近いもののように思います。形式に拘りいつも同じように
打っていては、それは誰かのコピーにすぎません。そこには「あなた」である理由が
何もない。結果など気にせず、自分の思いのままに打てば良かったのです。
それが正しい学びの姿勢であり、何より囲碁の楽しみ方ではないでしょうか。

それから私は指導方針を改めました。知識に縛られず、自分の思いをしっかり表現すること
を指導しました。その時に、失敗することもありますが、それが学ぶことですよ、と
伝えました。人生で失敗すると取り返しがつかない事もありますが、囲碁なら「もう一局」
と言えば良いわけです。むしろ、失敗しなきゃ損ですよ、くらいに言いました。
すると効果はてきめん、ほとんどの方が上達の扉を自ら開けていくのを実感しました。
広い意味では「悪い手」なんて存在しない。

悪い手もしっかり体験すれば、むしろ素晴らしい手と成り得る。それが私の気づきでした。

思えば子供たちは、自分の思いのままに悪い手もひどい手も躊躇なく打ちます。
そうやって頭ではなく体験的に囲碁を覚えていくので、上達が早いわけです。
大人は失敗を恐れて、知識に囚われがちです。

皆さんももっと自由に、自らの考えで囲碁を打ってみませんか。きっと楽しいですよ。

2015/11/15

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『ゲームを超えて』

とても悲しい出来事がありました。

日本棋院の段級位認定大会に、4歳の男の子が参加していました。
10級で申請していましたが、碁の内容を見る限り6、7級くらいの実力はありそうです。
5月に碁を始めてわずか4か月ほどでここまで強くなったそうで、大会申し込みをした時点
より、2、3級は強くなったのでしょう。
案の定、大人相手に快勝していました。しかし、事件が起きたのです。

対戦相手のおばさんが、対局中にクレームというか4歳児を罵り始めたのです。
優しさのない言葉は、4歳児を追い詰めていきました。そして終いには、子供が反則行為を
したと言い出 したのです。子供は動揺して泣いています。異常事態に気づいた審判長が
盤面の確認に来たのですが、おばさんは子供がどれだけ酷い行為をしたかを一生懸命
審判長に説明しています。
子供は嗚咽しながら小さな背中を丸くしていました。結果は審判長の判断で両者勝ちと
なりました。おばさんは嬉しそうに席を立ち去っていきました。
もちろん盤面は100目ほどの大差でしたが。。。

一部始終を見ていた私は、おばさんへの怒りというより悲しみの方が強かったです。
碁を教える身としては、このような悲しい出来事をさせるために碁を薦めているのでは
ない、という思いがあったからです。
ちょっとおこがましい考えではありますが、あのおばさん を救ってあげることは
できないものか、と本気で思いました。
なぜなら、おばさんも辛い思いをしながら碁を打っているように感じたからです。

そこで最初に私が考えたのは、勝敗を競わない教室を作る、というものでした。
勝ち負けの呪縛から解放してあげれば、碁を純粋に楽しむことができるのでは?
と思ったからです。
しかし、その教室は目的がはっきりしません。碁を通じてコミュニケーションの場所を
提供するという目的になりそうですが、それなら別に碁でなくてもできます。
もう一つ気になるのは、勝負を楽しむゲームとしての碁を否定しているとも受け取れます。
勝負を楽しむことは、碁の本質の1つです。それを否定していると取ら れては、
碁自体の価値を下げるような行為となってしまいます。
それではもったいない。

そこで、勝負とは違う、新しい軸を作ってしまえば良いことに気づきました。
引くのではなく、足すのであれば、碁の価値を高めることになります。

そこで思いつたのが、芸術としての碁 です!

元々、碁にはゲームと芸術の2面性があると言われています。
「琴棋書画」という言葉がありますが、碁が音楽、書道、美術と並んでいるわけですから、
これはもうジャンル的には芸術と言っても良いでしょう。
この中で碁だけが、勝負がつくゲームとしての要素も含んでいるわけです。

現在の囲碁会碁事情を考えた時に、勝負を楽しむゲームとしての碁は浸透してますが、
芸術としての碁はどうでしょうか?
碁は芸術だ!なんて言いながら、芸術としての活動ってしてないんじゃないの? と、
私は思ったわけです。私も含めてですが。。。
ゲームとして勝ち負けを楽しむ碁なら、囲碁上達教室といった内容になります。
目的は上達ですからね。これは既存の教室であり、碁会所はほぼ勝負だけの世界です。

それでは、芸術として楽しむ碁とは、一体どんな場所になるでしょうか?
その答えは、音楽、書道、美術の教室にあります。芸術の教室は、作品を発表することが
目的です。つまり、作品づくりを楽しむことに主眼があります。ここですよ。ここ。

要するに私が言いたいのは

碁だって、作品づくりと発表に主眼を置いた場所があっても いいじゃない! というもの。

棋譜を頑張って二人で作って、みんなに見てもらうために発表する。
この時、ゲームの碁感覚では、「私みたいな下手な者が棋譜を発表するなんて・・・。」
という発想になりますが、芸術の碁では棋力は関係ありません。
ここで、ブレない男 長谷俊(石音イン)の名言を私は思い出しました。

長谷「初段を目指すためには、まずは打った碁の並べ替えしができるようになりましょう。
そして、皆さんの棋譜を遺すのです。」

生徒A「しかし長谷先生。井山さんの棋譜なら後世に残す意味ありますけど、私たちの
棋譜を遺したところで。。。」

長谷「なにをバカな!良い棋譜ばかり残しても仕方ないでしょ。後世の碁打ちに、こんな
ヘボな碁打ちがいて、時代を超えて同じような苦悩を味わっていたと伝えるわけですよ。
それは名局より意味があるでしょ!」

その時は皆さん爆笑しましたが、さもありなん。芸術とはその時の感情の表現であり、
完璧などという発想とはそもそも次元が違うものなのでした。

15級の方はその棋力での自分の作品を作ればよいわけです。

先日、上野毛教室の近くにある五島美術館に行ってきました。目的は、茶道具の水指
(お湯をいれる器)を見に行くためです。
前日に石音の根本さんから、「破袋(やぶれぶくろ)」なる水指があることを聞き、
教室が終わった後に美術館に寄ってみました。
その水指は、器を焼いてる最中にどうやら大きな亀裂が入ってしまったようです。
そのヒビ割れが いいね! ということらしいです。
これって完璧を求める世界(勝敗や善悪)ではあり得ないことですよね。
しかも、国宝につぐ重要文化財に指定されていました。はあ。

つまるところ皆さんの碁作品も、300~400年後には「破石(やぶれいし)」なんて
題名がついて、国宝級の扱いを受けていてもおかしくないわけです。たぶん。

もう一つ、芸術碁が良いと思う点は、
芸術としての碁であれば、対戦相手は敵で はなく「共同制作者」になることです。

互いに力を合わせて良い作品を作る(人に見てもらう)ことが目的となりますので、
勝負の碁で生じる負けた時の失望感は軽くなるでしょう。
また、勝つためには手段を選ばないという寂しい行為も、誰もする必要がなくなります。

そして、良い作品を求めて、勉強して切磋琢磨していくうちに、最後に得られるものは
一緒に作品を完成させた仲間です。
目的をコミュニケーションの場を作るとするよりも、目的はあくまでも良い作品づくり
とし、それによって得られるものが新たな気づきや仲間というシナリオの方が、
スマートな気がします。
まあ、部活で例えると、目標は甲子園出場ですが、それに向かって努力する過程で
生まれる絆な友情みたいな感じですかね。
絆や友情のために部員募集としては、何かおかしいですよね。

「欲しいものを手に入れる前に、もうすでに大事なものが手に入っていた。」
なんてセリフを言わせてやりたい。

そんな場所を提供したいんです。

P.S.兵馬の気づき番外編
先日、家族旅行で屋久島に行きました。屋久島での気づきをひと言。

屋久島では、鹿や猿、小鳥や昆虫、木々や草花、生命あるものだけでなく岩や水や風
までもが互いに命をつむぎ、ただただ種を未来に繋げるという厳かな行いだけが
日々刻々と繰り返されていた。縄文杉とてその一つに過ぎなかった。
神聖なる営みを目の当たりにして思うことは、「人間だけが大きくズレてしまった。」
という責念だった。

人間であれば種を繋げるだけでなく、知恵や文化を後世に残すことが大事なはず。
屋久島の全てがそうしていたように、我々も互いに心をつむぎ、次の世代に今を伝える
べく生きていければ、幸せなんじゃないだろうか。
囲碁もどうだろう。井山さんは間違いなく縄文杉だけど、それを造り上げ支えているのは
我々碁打ちすべての人であって、ひとりひとりの碁が井山裕太へと繋がっているはずだ。
そして未来にもつながるように、みんながそんな碁を打てたなら、碁会の未来も明るく
なるんじゃないだろうか。

2015/10/16

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『兵馬の㊙マルチ大作戦!』

ここだけの話ですが、最近私はいい作戦を思いつきました。
この作戦が上手くいけば、皆さんボロ儲けであります。

念のため釘を刺しておきますが、決して他言はしないでくださいね。
何せ作戦名は「㊙マルチ大作戦!」ですので・・・。
私が言うのも何ですが、とてもとても怪しい作戦ですので、
突っ込みはご遠慮ください。それでは3回目のコラム、スタートです。

長年、私は囲碁を教えることを生業としてきました。微力ではありますが、
囲碁普及に貢献してきた自負もあります。

しかし、如何せん個人で普及するには限界があると、最近しみじみ感じています。
初心者をゼロか ら教えるには、指導者がほぼ付きっ切りで数か月はかかります。
初級者や中級者も受け入れてくれる場所が少ないため、放置しているとすぐに
碁から離れてしまいます。なので、初級者・中級者もケアする必要があります。
上級者になってやっと、色々なコミニュティに参加できるようになり、
独り立ちして卒業です。

この作業を囲碁講師1人でしていては、量・質ともに限界があります。
講師数人で担当を決めてやれば質の向上はあるでしょうが、
それでもトータル量はそれほど差は生じないでしょう。

そこで私が考えついたのが 「㊙マルチ大作戦!」 なんです。

簡単にこの作戦を説明すると 「囲碁を教える人を育てる」 というもの 。
そう聞くと、囲碁インストラクターを育てるのと思った方もいるかもしれませんが、
それほど大げさなものではありません。

私が目指すところは 「すべての碁打ちが囲碁を普及できる人」
にしちゃうことです。つまり、上級有段者はもちろん初級者までもが、
入門指導ができるようになることです。
もしこれが実現すれば、爆発的に囲碁普及が進むはずです。

しかし、この作戦には2つの問題点があります。
1、囲碁を教えるための技術が浸透していないこと。
2、初級・中級者が教えることを上級以上の人が馬鹿にする風潮があること。
(これは教えることに限らず、囲碁会全体にある悪しき風潮。普及が進まない根源)

この2つの問題点を当コラムで少しずつ解決していこうかな、と思っています。
教える方法をしっかり理解するためには、まず上達が如何にして起きるか、
を知る必要があります。

したがって、順序としては上達法を踏まえた上で、指導方法を紹介したいと
考えています。自分だけ強くなりたい人は、上達法だけ読んでも構いません。
ただし、有力な上達法に「人に教える」というものがありまして
あなたはすでに私の術中であることを、先にお知らせしておきます。

さて、もし私の生徒さんがすべて囲碁普及者になったら、どうなるか?
皆さん想像してみてください。

1、私の生徒さん1人1人が入門者を育てる。
2、その入門者を中級・上級の生徒さんが初級レベルまでは育てる。
3、初級レベルに達した新生徒さんは、新たに入門者を勧誘する。
4、私はたまに見回りテキトーなことを言う。
5、生徒さんが新たな生徒さんを呼び、私はニコニコしているだけでボロ儲け。

これが「兵馬の㊙マルチ大作戦!」 の全貌です。
もう一度断っておきますが、決して他言はしないでください。
㊙の意味をご理解ください。

ちなみに私だけが得しているように見えますが、それは大いなる勘違いです。
この作戦が進めば、囲碁会分布図(そんなのあるのか?)が変わります。
初級・中級者の全体に占める割合が増えますから、現行の上級者 以上が多い
分布図が逆転します。つまり、初級・中級者が囲碁会の中心になるわけです。

つまり、この作戦は、囲碁が弱くていつもイジメられている初級・中級者が
自由を勝ち取るための、言うなれば「囲碁会革命」です。
あ、上級者以上の方に得がない? そんなことはありませんよ。
上級者以上の方も自分が教えることで、特権階級になれるわけです。
つまり、皆さんにとって良いことだらけの作戦なんです。
そこをご理解ください。

この宇宙コロニーよりも壮大な作戦の手始めが、当コラムです。
今回で3回目となりますが、まだ前回までの話を読んでいない方は
今すぐ読んで頂きたい。
作戦はもう始まっていますので、少し出遅れていますがまだまだ間に合います。
また、もう読んだという方も、今回の内容を踏まえた上で、
もう一度読み直してみましょう。
作戦遂行には意思統一が大事ですので、そこをよくご理解ください。

それでは、今回はここまで。
次回は世紀の大発見 「囲碁が強くなる呪文」 のお話をします。

2015/10/03

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『全自動洗濯機』

我が家にドラム式の全自動洗濯機が登場したのは、今から10年ほど前。
洗濯から乾燥までをボタン1つで可能にしたその機械は、我が家に家事革命を起こしました。

新婚当初、国道246号近くのマンションに住んでいました。車の排気ガスのため、
洗濯物を部屋干しせざるを得なかったのですが、どうしてもあのナマ乾きの臭いが
気になって仕方がなかったんです。

そこに登場したのが、ドラム式全自動洗濯機の「ぜんじ」さんです。
「善二」さんは毎日昼夜を問わずしっかり働き、我が家から「ナマ乾き」なる単語が消えました。
現在は2号機「善次」さんが活躍中。
彼氏の良いところは、私の言ったことを忠実におこなってくれるところです。
何せ私の命令に背いたことは、今まで一度もありませんから。
掃除機は数年前に「ルンバ」君なる輩が登場し、勝手に動き回る彼氏は、
私を部屋の隅にあっという間に追い込んで来ます。
今ではルンバ先生のために、床掃除をしている私です。
我が家で私の言うことをきいてくれるのは、もう「善次」さんだけです。。。
(哀(たまに大きな独り言をいってますが)

さて、私の話はそのくらいにして、囲碁の話に戻りましょう。
前回は「攻めの大事さ」についてお話しました。

簡単におさらいすると、攻めることで着手の選択権を保持し、自らの選択から
実体験を積むことで碁の理解が進む、という内容でした。
逆に、相手の着手に受けてばかり(守ってばかり)では、自分で着手を選んでいないので
学習効果が薄い。昔なら「気合が悪い!」と着手の善悪を超えて根性論的に
指導していましたが、あれは正解だったんです。
たぶん昔の人は、経験的に学ぶ姿勢を理解していたんでしょうね。

選択権を保持することの大事さは、普段の教室でもよく指導しています。
「盤上は好きなもの買っていいよ~状態です。どんどんお買い物してちょうだい。」
「お友達の買い物に付き合って、ついで買いしちゃダメですよ。ちゃんと選んでくださいね。」
などと言って、ご婦人方に説明しています。
自由を手にした生徒さん達は、皆さん楽しそうに対局しています。

そんな中、ひとりのご婦人が
「好きなもの選んでいいと言われても、何を選んで良いか困る。」
と言ってきたのです。正直私はビックリしました。
普段の生活にあまり選択権のない私は、選択権=幸せ だと勝手に思っていたからです。
しかし実際は、選択権があるがゆえに迷いが生じ、決断に困ってしまうというわけです。
う~ん、贅沢な悩みです。

選択権があると、幸せに感じるときと逆に負担に感じるとき、確かにありますね。
たとえば食べ放題飲み放題などで、好きなものを好きなだけ選べるときは幸せに感じます。

しかし、仕事や進路などで選択権から決断を下すときは、言いようのない不安に襲われます。
選択権と言っても、この両者には大きな違いがあるわけです。
それは、物事の重要度の違いでしょうか? 答えは NO です。
なぜなら、あまり重要でもない?趣味の囲碁でも、両者の違いが存在するからです。
ある人は選択の自由を楽しみ、ある人は選択自体を負担に思っている。

これは面白い発見です。
選択には、幸せに感じる選択と負担に感じる選択の2種類がある というわけです。
この両者には一体どんな違いがあるのでしょうか。

それは、「選択に結果を求めるか否か」だと私は思っています。

結果を求めれば、選択権があることの幸せよりも、決断に迫られる不安の方が大きくなります。
対して、結果を求めなければ、決断は負担とはならず、選べる幸福感が支配するでしょう。

囲碁でも結果を気にし過ぎると、対局が、一手一手が負担になります。
楽しいはずの対局が苦しく感じている方は、もしかすると結果を追い求め過ぎているのかも?
重症になると、選択権自体を放棄してしまいます。
ある者は敵の従者になり、またある者は本や上手(うわて)のいうことを
盲信するようになります。自分で考えることを止めちゃうわけです。
良い手とか悪い手だとかにガンジガラメになって。。。

そんなの「全自動選択機」じゃないかい!  
※はい。このセリフが言いたかったです。

私の結論を言いましょう。

結果はどうでもエエから、さっさと選べい!  (子供みたいに)
それで碁がもっと楽しくなるし、自分で選択した手なら善悪はともあれ
体験的に学習できるから上達も早いよ。 (子供みたいに)

どうせなら幸せな選択にしようよ。選択自体を選択できるのだから。
 注:「幸せな選択のススメ 」 関兵馬著(予定は未定)

結果を気にし過ぎて疲れている方に、私からひと言だけ

「善は二の次。善は二の次。」

2015/09/17

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『さなぎから蝶へ』

毎月第1・3土曜の夜9時より「碁が旨くなるスパイス講座」を担当しています関 兵馬です。

石音インストラクターの中で1番の古株である私は、根本オーナーに上手く取り入り
月2回のお仕事でお給料を頂いていました。
ところが最近、石音で週4~5回働いている某インストラクターN谷氏より
「インストラクターの中に給料泥棒がいる!」という、至極まっとうなクレームがあった?とか
ないとかで根本オーナーから
「関さん、もうちょっと何かしてくれないかな~」という業務命令が届きまして…。
仕方なしに、何か楽してできる仕事はないかな~と色々考えてみたのですが、
なかなかいいアイデアは浮かびません。

そんな時、私を訴えた某インストラクター長T氏が、台湾グダグダ旅行記を掲載しているのを
思い出しました。そうだ!私もその手でいこう。
ということで、「兵馬のきづき」という題名でコラムを書くことに決定。
ただし、月2回ね。それ以上は無理ですわ。と根本オーナーに伝えると、あっさりOKが出ました。
こんな調子で始まった当コラムですので、普段私が考えていることや感じたことを
何の捻りもなく書いていく決意でございます。皆さんもその覚悟でお目通りを。

さて、栄えある第1回のお題は~さなぎ から蝶へ~です。

ここで急ですが、皆さんに質問があります。
皆さんは 攻めと守り どちらが好きですか?
ちなみに私は、攻めが大好きドS気質です。しかし、家庭ができてからというもの
ありとあらゆる口撃に耐えるべく、さなぎマンになっております。
日頃の鬱憤を石音の指導碁で晴らすのが、私の唯一の生き甲斐でございます。
(興味のある方は是非観戦を!)
どうも生徒さんの中には、私からの愛のムチだと勘違いしている人徳者が多く、救われています。

それはさて置き、囲碁でも攻め派と守り派がありますよね。
どちらが良いとは一概に言えませんが、高段者になるまでは攻めを重視するように
私はお勧めしています。その理由は、攻めることで自分の思いを盤上に表現できるように
なるからです。
それに対し、守ってばかりでは相手の手に対応しているだけになります。それでは
自らの意思を表現する技術が身につきません。なので、下手でも攻めてみるのが大事なのです。

結果を気にせず攻めてみること。

自分の思いを表現できるようになれば、その結果がどうであれ、しっかり体験的に
学習をすることができます。
しかし、ビビッて守ってばかりでは、自らの体験としての学習が進みません。
結果上達が遅くなります。さなぎマンではダメダメなんですよ。
例えば、いくら本を読んでも上達しないのは、体験的に理解していないからといえます。
言うは易し、行うは難し ですね。

ここで気になるのは 攻めって何だろう? ということです。
攻めと一言でいっても、相手をせん滅する攻め、敵の出鼻を挫くジャブのような軽い攻め、
はたまた、攻めるフリをして逃走する見せかけの攻め、と多種多彩です。
ひとつ共通して言えることは、相手に圧力を掛けることで敵の動きを制限し、
自らの選択肢を増やす行為だということです。
まあ、簡単に言うと先手をキープするということですね。

囲碁は、限られた空間を交互に打って領土を取り合うゲームです。
このシンプルなゲームにおいて一番の特権は、「手番を持っていること」なのです。
手番の者にのみ選 択権が与えられ、後手の者は待つより方法はありません。
この理屈がわかれば、守りオンリーはかなりヤバい作戦だと気づくはずです。
なんせ大事な選択権を、いつも相手に献上しているわけですから。
そこで、

皆さんはとにかく攻めるべきです!
相手の着手には、まず無視することから考えてください!
選択権を保持し、自らの選択から実体験を得ること。それが上達への近道です。
そして何よりもその方が楽しいじゃありませんか。

さて、そろそろ私も さなぎから蝶へ 変貌を遂げる時期が来たようです。

あれ?何だかおかしいぞ。  どこに選択権とやらが在るのかなあ。。。

2015/07/08

囲碁, 関兵馬インストラクター

私は囲碁講師

昨年。3人の生徒さんが対局中に倒れました。
皆さん苦しい碁を逆転した瞬間、意識を失ってそのまま帰らぬ人となりました。

急な最期に、残されたご家族の方は心の整理がつかないご様子でしたが、
亡くなられたご本人は、とても晴れやかな表情を浮かべていました。

「かあちゃん、やったぞ」と。

私は囲碁講師。
今日も明日も生徒さんに囲碁を教えます。

最期まで。

関 兵馬

2015/01/31

その他, 関兵馬インストラクター

心の在り処

第1・3土曜日の夜の部担当の 関 兵馬 と申します。
囲碁を教えて17年、囲碁の普及と指導法について
考えなかった日は一日もありません。そんな囲碁バカです。
今までの思いの丈を「碁を愛する人に捧げる本」と題し
桜の咲く頃までには執筆したいと思っています。
読めば碁が恋しくなる ほっこり した内容になる予定です。


さて、今回のテーマは「お気に入りの場所」ということですが
実は私、どこの場所にいてもあまり変化を感じないようでして・・・。
特定の場所 は持ち合わせていないことに気づきました。
逆に言えば、どこでもお気に入りになっちゃうようです。

そこで、場所ではないのですが、居心地の良い「心の在り処」
というお話をしたいと思います。
 
誰しも調子の良い時と悪いの時の「心の在り処」の違いを
感じたことはありますよね。私も毎日違いを感じて過ごしています。

調子の良い日は朝から余裕たっぷりです。
そんな日は何が起きても笑っていられるし、1日が燦々としています。

こんな日が毎日続けば素晴らしいのですが、そうはいきません。

調子の悪い日は朝から焦りっぱなしです。
そんな日は些細な事でもイライ ラしてしまい、1日が憂鬱になります。

調子の良い日は何も心配ないのですが、問題は悪い日です。
調子の悪い日はどこか焦っていて、心が揺れているような感覚がします。
できれば少しでも、心を居心地の良い場所に戻してあげたいものです。

そんな時、私が実践してるある方法を紹介します。

それは・・・「ゆっくり急げ」 というものです。

矛盾して聞こえるかもしれませんが、心はゆっくりを意識して
行動は普段通りかやや遅くすることを心掛けます。
行動をやや遅くすると、朝の時間が間に合わなくなると思うかもしれませんが
意外と変わらないことがやってみると分かります。

ポイントは、心にゆとりを持たせるために次の行動だけに集中して
他の事は考えないようにすることです。
とは言っても、色々な事が思い浮かんで来て心を揺さぶろうとします。
そこで、次の行動を普段のスピードでするか、やや遅くするかを考えることで
余計な事を考えるスペースを消すのです。

この方法はとても有効ですので、皆さんも是非試してみてください。

素晴らしい1日のスタートをお約束します。

 

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