2015/11/29
囲碁教え方, 関兵馬インストラクター
ついに、根本席亭の本が出版されます!
皆さんより一足先に、席亭より直々に本を頂いて読んでみました。
ん?私の話が出ているじゃないの~。ああ、あの話ね。根本さん、覚えてたのね。
ということで、元ネタのエピソードを今回はコラムに書いてみました。
題名「思いのままに打つ」
あるカルチャー教室でのこと。碁をはじめて一年ほどした生徒さん(年配の女性)が、
私に相談があるというのです。
「囲碁は面白いけど、ちっとも上達しない。せっかく教室で習っているのに、一向に
上達しないなんて、私、碁の才能がないんじゃないかしら。もう教室やめようかな」
急な告白に、私は言葉を失いました。彼女がそんなに苦しんでいるとは、思いもしなかった
からです。その時私の脳裏に、対局中に懇々と考え込んでいる彼女の姿が、ふと
浮かびました。
「そうか。彼女は碁を楽しんでいたのではなく、苦しんでいたのか」と、その時はじめて
気づきました。まあ、ダメな先生ですね。しかし、相談に来るということは、まだ望みは
あるはずです。囲碁は面白いと言っているし、上達したいということは、裏を返せば碁が
好きだと言っているわけですから。この方は、私からの的確なアドバイスを望んでいる
のだ、と思いました。
そこで私は
「あまり色々な事を考えずに、シンプルに自分の打ちたい手を打ってみてはどうですか」
と言いました。とりあえず、対局中のあの辛そうな時間から、彼女を解放してあげたい。
そんな思いから、このようなアドバイスとなったのですが、正直効果があるのか
どうだか・・・。
それからです。彼女の様子が見違えるほど変わったのは。
今までは長考派で、かなり慎重に打っていたのに突然、小気味良く着手が早くなり、
以前彼女から感じられた対局中の息苦しさが無くなりました。表情も明るくなり、まるで
この世の春が訪れたかのように、自由を楽しんでいます。変わったのは様子だけでは
ありません。何と囲碁が上達しはじめたのです。一体、彼女に何が起きたのでしょうか。
私は彼女のある変化に気づきました。それは
「悪い手をたくさん打てるようになった。」ということです。
良い手を打てるようになることが上達だと思っていた私には、正直驚きの発見でした。
「良い手を打て」と教える指導者はいても、「悪い手を打て」と教える指導者はいません。
良い手ばかりを打たせようとする今までの私の指導法は、どこか間違っていたのではないか。
そして、どう打てば良いかという「答え」だけを求める生徒さんの学習姿勢にも、
何か重大な落とし穴があるのではないか。そう思った私は、さらに彼女の変化を深く
考察してみることにしました。
どうして悪い手を打てるようになったら強くなったのでしょうか。
普通、悪い手を打てば碁は負けるので良くないことのはずです。それなのに彼女は明らかに
上達した。私のアドバイス「自分の打ちたい手を打ってみる。」に従い、彼女は自分の
思いのままに碁石を置くようになりました。そうすると、見たこともない奇妙な形
(愚形とも言う)や定石や手筋にない手が、盤上にたくさん現れました。それらは、
人や本から教わった「知識の手」ではなく、彼女の意思が生んだ「考えた手」だったのです。
自分の思い通りに打つことで、大げさに言えば自身の囲碁観を盤上に表現できるように
変わったわけです。その表現が多少まずい「悪い手」であっても、自らの考えで
打たれた手であれば、何が悪かったのかを体験的に理解できるようになったのです。
その理解は、本の解説を見て覚える表面的なものではなく、自身の内面から湧き出てきた
より深いもののようです。そして、悪い手を体験的に理解す ることで、その反対の
良い手を暗記ではなく自分の力で導けるようになったのでした。
得てして大人は結果を早く求めたがります。失敗しないでどうやって事を成すか、
上手くいく「答え」だけを知りたがります。そしてその教えをマニュアル化し、
どの局面でも判を押すかのように繰り返します。下手をするとマニュアル通り打ってこない
相手に対し、「それは定石ではない」などと言ったりして。
一方、指導者も「答え」を教えることが良い指導法だと勘違いし(以前の私もそうだった
が)、知らぬ間に答えを覚えることを生徒さんに強要してしまいます。暗記することを
義務づけられた生徒さん達は、覚えられないことに落胆し、自分は囲碁に向いてないと
思うようになるわけです。これは両方にとって不幸な話です。
どうやら囲碁は覚えるのではなく、考えて体験してみると良いようです。そもそも囲碁は
人に教えてもらうものじゃないのかもしれません。と言い切ると、私の仕事がなくなって
しまいますが。それは置いといて、囲碁は自分で考え体験し学んでいく自ら創造する
ゲームだったのです。
いや、ゲームというより芸術に近いもののように思います。形式に拘りいつも同じように
打っていては、それは誰かのコピーにすぎません。そこには「あなた」である理由が
何もない。結果など気にせず、自分の思いのままに打てば良かったのです。
それが正しい学びの姿勢であり、何より囲碁の楽しみ方ではないでしょうか。
それから私は指導方針を改めました。知識に縛られず、自分の思いをしっかり表現すること
を指導しました。その時に、失敗することもありますが、それが学ぶことですよ、と
伝えました。人生で失敗すると取り返しがつかない事もありますが、囲碁なら「もう一局」
と言えば良いわけです。むしろ、失敗しなきゃ損ですよ、くらいに言いました。
すると効果はてきめん、ほとんどの方が上達の扉を自ら開けていくのを実感しました。
広い意味では「悪い手」なんて存在しない。
悪い手もしっかり体験すれば、むしろ素晴らしい手と成り得る。それが私の気づきでした。
思えば子供たちは、自分の思いのままに悪い手もひどい手も躊躇なく打ちます。
そうやって頭ではなく体験的に囲碁を覚えていくので、上達が早いわけです。
大人は失敗を恐れて、知識に囚われがちです。
皆さんももっと自由に、自らの考えで囲碁を打ってみませんか。きっと楽しいですよ。
2015/11/15
囲碁, 関兵馬インストラクター
とても悲しい出来事がありました。
日本棋院の段級位認定大会に、4歳の男の子が参加していました。
10級で申請していましたが、碁の内容を見る限り6、7級くらいの実力はありそうです。
5月に碁を始めてわずか4か月ほどでここまで強くなったそうで、大会申し込みをした時点
より、2、3級は強くなったのでしょう。
案の定、大人相手に快勝していました。しかし、事件が起きたのです。
対戦相手のおばさんが、対局中にクレームというか4歳児を罵り始めたのです。
優しさのない言葉は、4歳児を追い詰めていきました。そして終いには、子供が反則行為を
したと言い出 したのです。子供は動揺して泣いています。異常事態に気づいた審判長が
盤面の確認に来たのですが、おばさんは子供がどれだけ酷い行為をしたかを一生懸命
審判長に説明しています。
子供は嗚咽しながら小さな背中を丸くしていました。結果は審判長の判断で両者勝ちと
なりました。おばさんは嬉しそうに席を立ち去っていきました。
もちろん盤面は100目ほどの大差でしたが。。。
一部始終を見ていた私は、おばさんへの怒りというより悲しみの方が強かったです。
碁を教える身としては、このような悲しい出来事をさせるために碁を薦めているのでは
ない、という思いがあったからです。
ちょっとおこがましい考えではありますが、あのおばさん を救ってあげることは
できないものか、と本気で思いました。
なぜなら、おばさんも辛い思いをしながら碁を打っているように感じたからです。
そこで最初に私が考えたのは、勝敗を競わない教室を作る、というものでした。
勝ち負けの呪縛から解放してあげれば、碁を純粋に楽しむことができるのでは?
と思ったからです。
しかし、その教室は目的がはっきりしません。碁を通じてコミュニケーションの場所を
提供するという目的になりそうですが、それなら別に碁でなくてもできます。
もう一つ気になるのは、勝負を楽しむゲームとしての碁を否定しているとも受け取れます。
勝負を楽しむことは、碁の本質の1つです。それを否定していると取ら れては、
碁自体の価値を下げるような行為となってしまいます。
それではもったいない。
そこで、勝負とは違う、新しい軸を作ってしまえば良いことに気づきました。
引くのではなく、足すのであれば、碁の価値を高めることになります。
そこで思いつたのが、芸術としての碁 です!
元々、碁にはゲームと芸術の2面性があると言われています。
「琴棋書画」という言葉がありますが、碁が音楽、書道、美術と並んでいるわけですから、
これはもうジャンル的には芸術と言っても良いでしょう。
この中で碁だけが、勝負がつくゲームとしての要素も含んでいるわけです。
現在の囲碁会碁事情を考えた時に、勝負を楽しむゲームとしての碁は浸透してますが、
芸術としての碁はどうでしょうか?
碁は芸術だ!なんて言いながら、芸術としての活動ってしてないんじゃないの? と、
私は思ったわけです。私も含めてですが。。。
ゲームとして勝ち負けを楽しむ碁なら、囲碁上達教室といった内容になります。
目的は上達ですからね。これは既存の教室であり、碁会所はほぼ勝負だけの世界です。
それでは、芸術として楽しむ碁とは、一体どんな場所になるでしょうか?
その答えは、音楽、書道、美術の教室にあります。芸術の教室は、作品を発表することが
目的です。つまり、作品づくりを楽しむことに主眼があります。ここですよ。ここ。
要するに私が言いたいのは
碁だって、作品づくりと発表に主眼を置いた場所があっても いいじゃない! というもの。
棋譜を頑張って二人で作って、みんなに見てもらうために発表する。
この時、ゲームの碁感覚では、「私みたいな下手な者が棋譜を発表するなんて・・・。」
という発想になりますが、芸術の碁では棋力は関係ありません。
ここで、ブレない男 長谷俊(石音イン)の名言を私は思い出しました。
長谷「初段を目指すためには、まずは打った碁の並べ替えしができるようになりましょう。
そして、皆さんの棋譜を遺すのです。」
生徒A「しかし長谷先生。井山さんの棋譜なら後世に残す意味ありますけど、私たちの
棋譜を遺したところで。。。」
長谷「なにをバカな!良い棋譜ばかり残しても仕方ないでしょ。後世の碁打ちに、こんな
ヘボな碁打ちがいて、時代を超えて同じような苦悩を味わっていたと伝えるわけですよ。
それは名局より意味があるでしょ!」
その時は皆さん爆笑しましたが、さもありなん。芸術とはその時の感情の表現であり、
完璧などという発想とはそもそも次元が違うものなのでした。
15級の方はその棋力での自分の作品を作ればよいわけです。
先日、上野毛教室の近くにある五島美術館に行ってきました。目的は、茶道具の水指
(お湯をいれる器)を見に行くためです。
前日に石音の根本さんから、「破袋(やぶれぶくろ)」なる水指があることを聞き、
教室が終わった後に美術館に寄ってみました。
その水指は、器を焼いてる最中にどうやら大きな亀裂が入ってしまったようです。
そのヒビ割れが いいね! ということらしいです。
これって完璧を求める世界(勝敗や善悪)ではあり得ないことですよね。
しかも、国宝につぐ重要文化財に指定されていました。はあ。
つまるところ皆さんの碁作品も、300~400年後には「破石(やぶれいし)」なんて
題名がついて、国宝級の扱いを受けていてもおかしくないわけです。たぶん。
もう一つ、芸術碁が良いと思う点は、
芸術としての碁であれば、対戦相手は敵で はなく「共同制作者」になることです。
互いに力を合わせて良い作品を作る(人に見てもらう)ことが目的となりますので、
勝負の碁で生じる負けた時の失望感は軽くなるでしょう。
また、勝つためには手段を選ばないという寂しい行為も、誰もする必要がなくなります。
そして、良い作品を求めて、勉強して切磋琢磨していくうちに、最後に得られるものは
一緒に作品を完成させた仲間です。
目的をコミュニケーションの場を作るとするよりも、目的はあくまでも良い作品づくり
とし、それによって得られるものが新たな気づきや仲間というシナリオの方が、
スマートな気がします。
まあ、部活で例えると、目標は甲子園出場ですが、それに向かって努力する過程で
生まれる絆な友情みたいな感じですかね。
絆や友情のために部員募集としては、何かおかしいですよね。
「欲しいものを手に入れる前に、もうすでに大事なものが手に入っていた。」
なんてセリフを言わせてやりたい。
そんな場所を提供したいんです。
P.S.兵馬の気づき番外編
先日、家族旅行で屋久島に行きました。屋久島での気づきをひと言。
屋久島では、鹿や猿、小鳥や昆虫、木々や草花、生命あるものだけでなく岩や水や風
までもが互いに命をつむぎ、ただただ種を未来に繋げるという厳かな行いだけが
日々刻々と繰り返されていた。縄文杉とてその一つに過ぎなかった。
神聖なる営みを目の当たりにして思うことは、「人間だけが大きくズレてしまった。」
という責念だった。
人間であれば種を繋げるだけでなく、知恵や文化を後世に残すことが大事なはず。
屋久島の全てがそうしていたように、我々も互いに心をつむぎ、次の世代に今を伝える
べく生きていければ、幸せなんじゃないだろうか。
囲碁もどうだろう。井山さんは間違いなく縄文杉だけど、それを造り上げ支えているのは
我々碁打ちすべての人であって、ひとりひとりの碁が井山裕太へと繋がっているはずだ。
そして未来にもつながるように、みんながそんな碁を打てたなら、碁会の未来も明るく
なるんじゃないだろうか。