事件には、静かなものと騒がしいものの二種類がある。
僕が遭遇したのは、「静かな事件」だった。しかも、石音の席亭さんである
根本明さんや、インストラクターである関兵馬さんを巻き込んで。被害者も
加害者もいないこの事件の首謀者は、「石音の存在意義」という、わかるようで
わからない、しかし決定的に重要な概念だった。
僕は去年の8月ごろに、石音のインストラクターとして活動を始めた。昔は
日本棋院の院生だったし、人前で話したり文章を書くような仕事もしていたから、
「囲碁インストラクター」が自分の職業的な選択肢の一つであることは
わかっていた。
しかし、囲碁インストラクターとして働こうと考えたことは一度もなかった。
囲碁インストラクターという仕事が、そのころの僕には「囲碁しかできない
つまらない仕事」に思えたからだ。囲碁以外のたくさんのことを、僕はしていた。
そんな僕が、石音という場で活動をしたいと思った理由は、ひとえに
「根本さんが描いていたビジョン」にある。実名および顔写真必須という
システムに現れている通り、石音は「打って終わり」の既存対局場とは
一線を画する、人間同士のコミュニケーションを大切にした対局場の運営を
志している。
そのビジョンに共感して、僕は石音で活動を始めた。「囲碁で終わり」ではなく、
「囲碁の向こう側にある何か」を求めて、石音スタッフの皆さんも活動をしていた。
だから石音のインストラクターは、「打って終わり」の指導をほとんどしない。
一人ずつの利用者さんに寄り添って、囲碁人生に伴走していくような、
長い時間軸での指導をいつも行っている。
僕は、そのこと自体が「事件」だと思った。石音のスタッフさんたちはみな、
お客様の囲碁人生の伴走者、すなわち「ライフパートナー」と名乗るべき活動を
しながらも、実際には「インストラクター」と名乗ってしまっている。
僕が囲碁インストラクターになりたくなかった理由は、それが
「囲碁しかできない仕事」に思えたからだ。それなら僕と同じように、
囲碁インストラクターが「囲碁しかしない仕事」に思えてしまう人は、
世間にはたくさんいるはずだ。
席亭である根本さんのビジョンに共感して集い、
石音でしかできない「囲碁人生の伴走者」という仕事をしているのに、
外側からは「囲碁しかしない仕事」と見られてしまう。これは、静かな大事件だ。
インストラクターと名乗り続ける限り、「石音の存在意義」が、
世間に伝わらなくなってしまう。
僕は根本さんに、「IGOライフパートナー」という、石音スタッフの新しい名称を
提案した。「囲碁」を「IGO」にしたのは、僕が最近興したIGOホールディングス
という会社の理念、すなわち「囲碁を再定義する」という気概を反映している。
株式会社石音は、「囲碁インストラクター」の定義を、「IGOライフパートナー」
に書き換えようとしている。囲碁人生の伴走者。そんな人たちが石音に続々と
集まるようになったら、それこそ囲碁界きっての、歴史上に類を見ない大事件だ。
「石音の存在意義」には、そんな未来が詰まっている。