とても悲しい出来事がありました。
日本棋院の段級位認定大会に、4歳の男の子が参加していました。
10級で申請していましたが、碁の内容を見る限り6、7級くらいの実力はありそうです。
5月に碁を始めてわずか4か月ほどでここまで強くなったそうで、大会申し込みをした時点
より、2、3級は強くなったのでしょう。
案の定、大人相手に快勝していました。しかし、事件が起きたのです。
対戦相手のおばさんが、対局中にクレームというか4歳児を罵り始めたのです。
優しさのない言葉は、4歳児を追い詰めていきました。そして終いには、子供が反則行為を
したと言い出 したのです。子供は動揺して泣いています。異常事態に気づいた審判長が
盤面の確認に来たのですが、おばさんは子供がどれだけ酷い行為をしたかを一生懸命
審判長に説明しています。
子供は嗚咽しながら小さな背中を丸くしていました。結果は審判長の判断で両者勝ちと
なりました。おばさんは嬉しそうに席を立ち去っていきました。
もちろん盤面は100目ほどの大差でしたが。。。
一部始終を見ていた私は、おばさんへの怒りというより悲しみの方が強かったです。
碁を教える身としては、このような悲しい出来事をさせるために碁を薦めているのでは
ない、という思いがあったからです。
ちょっとおこがましい考えではありますが、あのおばさん を救ってあげることは
できないものか、と本気で思いました。
なぜなら、おばさんも辛い思いをしながら碁を打っているように感じたからです。
そこで最初に私が考えたのは、勝敗を競わない教室を作る、というものでした。
勝ち負けの呪縛から解放してあげれば、碁を純粋に楽しむことができるのでは?
と思ったからです。
しかし、その教室は目的がはっきりしません。碁を通じてコミュニケーションの場所を
提供するという目的になりそうですが、それなら別に碁でなくてもできます。
もう一つ気になるのは、勝負を楽しむゲームとしての碁を否定しているとも受け取れます。
勝負を楽しむことは、碁の本質の1つです。それを否定していると取ら れては、
碁自体の価値を下げるような行為となってしまいます。
それではもったいない。
そこで、勝負とは違う、新しい軸を作ってしまえば良いことに気づきました。
引くのではなく、足すのであれば、碁の価値を高めることになります。
そこで思いつたのが、芸術としての碁 です!
元々、碁にはゲームと芸術の2面性があると言われています。
「琴棋書画」という言葉がありますが、碁が音楽、書道、美術と並んでいるわけですから、
これはもうジャンル的には芸術と言っても良いでしょう。
この中で碁だけが、勝負がつくゲームとしての要素も含んでいるわけです。
現在の囲碁会碁事情を考えた時に、勝負を楽しむゲームとしての碁は浸透してますが、
芸術としての碁はどうでしょうか?
碁は芸術だ!なんて言いながら、芸術としての活動ってしてないんじゃないの? と、
私は思ったわけです。私も含めてですが。。。
ゲームとして勝ち負けを楽しむ碁なら、囲碁上達教室といった内容になります。
目的は上達ですからね。これは既存の教室であり、碁会所はほぼ勝負だけの世界です。
それでは、芸術として楽しむ碁とは、一体どんな場所になるでしょうか?
その答えは、音楽、書道、美術の教室にあります。芸術の教室は、作品を発表することが
目的です。つまり、作品づくりを楽しむことに主眼があります。ここですよ。ここ。
要するに私が言いたいのは
碁だって、作品づくりと発表に主眼を置いた場所があっても いいじゃない! というもの。
棋譜を頑張って二人で作って、みんなに見てもらうために発表する。
この時、ゲームの碁感覚では、「私みたいな下手な者が棋譜を発表するなんて・・・。」
という発想になりますが、芸術の碁では棋力は関係ありません。
ここで、ブレない男 長谷俊(石音イン)の名言を私は思い出しました。
長谷「初段を目指すためには、まずは打った碁の並べ替えしができるようになりましょう。
そして、皆さんの棋譜を遺すのです。」
生徒A「しかし長谷先生。井山さんの棋譜なら後世に残す意味ありますけど、私たちの
棋譜を遺したところで。。。」
長谷「なにをバカな!良い棋譜ばかり残しても仕方ないでしょ。後世の碁打ちに、こんな
ヘボな碁打ちがいて、時代を超えて同じような苦悩を味わっていたと伝えるわけですよ。
それは名局より意味があるでしょ!」
その時は皆さん爆笑しましたが、さもありなん。芸術とはその時の感情の表現であり、
完璧などという発想とはそもそも次元が違うものなのでした。
15級の方はその棋力での自分の作品を作ればよいわけです。
先日、上野毛教室の近くにある五島美術館に行ってきました。目的は、茶道具の水指
(お湯をいれる器)を見に行くためです。
前日に石音の根本さんから、「破袋(やぶれぶくろ)」なる水指があることを聞き、
教室が終わった後に美術館に寄ってみました。
その水指は、器を焼いてる最中にどうやら大きな亀裂が入ってしまったようです。
そのヒビ割れが いいね! ということらしいです。
これって完璧を求める世界(勝敗や善悪)ではあり得ないことですよね。
しかも、国宝につぐ重要文化財に指定されていました。はあ。
つまるところ皆さんの碁作品も、300~400年後には「破石(やぶれいし)」なんて
題名がついて、国宝級の扱いを受けていてもおかしくないわけです。たぶん。
もう一つ、芸術碁が良いと思う点は、
芸術としての碁であれば、対戦相手は敵で はなく「共同制作者」になることです。
互いに力を合わせて良い作品を作る(人に見てもらう)ことが目的となりますので、
勝負の碁で生じる負けた時の失望感は軽くなるでしょう。
また、勝つためには手段を選ばないという寂しい行為も、誰もする必要がなくなります。
そして、良い作品を求めて、勉強して切磋琢磨していくうちに、最後に得られるものは
一緒に作品を完成させた仲間です。
目的をコミュニケーションの場を作るとするよりも、目的はあくまでも良い作品づくり
とし、それによって得られるものが新たな気づきや仲間というシナリオの方が、
スマートな気がします。
まあ、部活で例えると、目標は甲子園出場ですが、それに向かって努力する過程で
生まれる絆な友情みたいな感じですかね。
絆や友情のために部員募集としては、何かおかしいですよね。
「欲しいものを手に入れる前に、もうすでに大事なものが手に入っていた。」
なんてセリフを言わせてやりたい。
そんな場所を提供したいんです。
P.S.兵馬の気づき番外編
先日、家族旅行で屋久島に行きました。屋久島での気づきをひと言。
屋久島では、鹿や猿、小鳥や昆虫、木々や草花、生命あるものだけでなく岩や水や風
までもが互いに命をつむぎ、ただただ種を未来に繋げるという厳かな行いだけが
日々刻々と繰り返されていた。縄文杉とてその一つに過ぎなかった。
神聖なる営みを目の当たりにして思うことは、「人間だけが大きくズレてしまった。」
という責念だった。
人間であれば種を繋げるだけでなく、知恵や文化を後世に残すことが大事なはず。
屋久島の全てがそうしていたように、我々も互いに心をつむぎ、次の世代に今を伝える
べく生きていければ、幸せなんじゃないだろうか。
囲碁もどうだろう。井山さんは間違いなく縄文杉だけど、それを造り上げ支えているのは
我々碁打ちすべての人であって、ひとりひとりの碁が井山裕太へと繋がっているはずだ。
そして未来にもつながるように、みんながそんな碁を打てたなら、碁会の未来も明るく
なるんじゃないだろうか。