2017/11/29
今夜はひさしぶりに自社サーバーがダウンした。
ここ1年ほど安定していたので、不意打ちをくらった格好だ。
ダウンしたのが21時半頃で
僕が異変に気づいたのがその20分後。
あわててシステム会社に電話して22時頃に復旧した。
今夜は電話もメールもなかったので気づくのが遅れたのだ。
サーバーが停止すると対局が途中で出来なくなる。
いつもならその直後からお客さんからの電話が鳴りやまない。
僕は四六時中ネット上で監視しているわけではないが、
今まではその電話でトラブルを即座に知ることが出来た。
しかし今夜は電話が鳴らなかった。
石音サーバーのトラブルを、自分のパソコンのトラブルと勘違いして
いつも真っ先に電話をかけてきた京都のKさん。
今夜も大変だろうけど頑張ってね、という電話を
毎回一呼吸おいてかけてくれた常連のFさん。
石音の取締役、つまり内輪なのに、いまの対局の記録はどうなるんだ、
とお客さんと同じ目線で怒ってくれたSさん。
3人とも今はいない。
静かなトラブルは、本当ならほっとしていいはずだった。
だが、予期せぬ寂しい気持ちが残った。
2017/11/25
タイトル戦で記者が現場で書くものといえば、
新聞掲載の観戦記事と相場はきまっている。
だがそれが芥川賞を獲ったとすれば、刮目に値する話だ。
将棋タイトルの最高峰、名人戦の舞台が高野山の金剛峯寺に
セットされたのは、昭和23年のことだった。
29歳の升田名人に24歳の大山が挑戦する名人戦の担当だった
毎日新聞学芸部副部長は、将棋そっちのけで決戦の舞台の2階で
小説を執筆していた。
『闘牛』は2年後、芥川賞を受賞した。
小説家・井上靖は、高野山の将棋名人戦で誕生したのだ。
まるで高尾―井山の囲碁名人戦で、担当記者、又吉直樹が
『火花』を書いていたみたいな話だが、それを知って以来、
僕の中で彼の著作を読んでみようというボルテージが一段あがった。
いつかいつかと思いながら、自分の中でずっとそのきっかけを待っている本。
数えたことはないが、数十冊はあるだろう。
その一冊、『天平の甍』にじっくり向き合ってみた。
年末に琵琶湖周辺を歩くつもりなので、次は『星と祭り』も読んでみたい。
2017/11/20
囲碁を趣味にして30年、仕事にしてから12年が経った。
1局2時間近くかける長考派ながら仕事で5千局、趣味で5千局、
あわせて1万局は打っただろう。
久しぶりに友人と打つと、対局がすすむにつれて
「あーいま奴と打ってるんだな」と感じる。
お互い無言でも盤上で会話している。
囲碁は車の運転と同じく、自分を隠せない。
着手にも考えるタイミングにも癖が出る。
この10年来の友人であり、一緒に若者への囲碁普及に燃えた仲間であり、
僕のサイトのお客さんでもある8歳下の彼と3年ぶりに打った。
ネット碁なので石の音はパソコンから機械的に響いてくる。
しかし「友の石音(いしおと)」は
僕の耳にはしっかりそれとわかるものだった。
これが、業界で唯一プロフィールを公開して
対局する囲碁サイト『石音』を立ち上げた原点だ。
*囲碁サイト石音 http://www.ishioto.jp/
2017/11/19
何かをきっかけに興味をもって扉をあける。
あけてみたらさらに興味が沸いてくる。
この循環を起こすのは僕の場合「言葉」であることが多い。
ある番組で作庭家の「ねばりのある石」という言葉に出会った。
初めて聞く表現で耳が立った。
ねばりがあるとは、石に重さ、重量感があるということ。
それは石の大きさ、重さではなく、性根、魂が入っていることだという。
どれが「ねばっていて」
どれが「ねばっていない」のか。
実際目にしたとき、感じられるかどうか。
心の奥で、早く庭を、石を見て確かめたいという声が聞こえる。
いつ消えてしまうかわからない小さい声だが、
この声が消えるまえに、ねばりのある石に会えるかどうかが
次のステップに進む鍵となる。
さて今週水曜夜に、渋谷で2回目のセミナー『上達の約束』を開催する。
「上達」について、囲碁に限らず、上達したい人、
させたい人と一緒に座談会形式で考える。
自分にとって上達のきっかけは何か。
それが見つかる場にしたい。
セミナー『上達の約束』(11/22渋谷)~本気で上達と向き合う~
https://peraichi.com/landing_pages/view/jotatsu-promise
2017/11/17
僕は、創立三年が経過した(一社)『全日本囲碁協会』の理事を
務めている。中心メンバーは皆80代、理事長は88歳だ。
これだけの高齢メンバーが情熱を傾けて運営する全国組織もないだろう。
囲碁の魅力の一つといえる。
今週は父よりはるかに年上の理事2人と
それぞれ個別に膝をつきあわせて話をした。
今までは中心メンバーの驚異的な熱意でもってきた組織だが、
いつまで続くかはわからない。
ではすぐに僕らが引き継げるかといえばそんな簡単な話ではない。
世代が離れすぎているのもあり課題は山積だ。
今後について2時間、3時間、激論をかわして
はっきりわかったことがある。
僕らはいま「変わる力」が試されている。
もう一度原点にもどって、変わる力を奮い起こす時なのは間違いない。
2017/11/09
囲碁を打っていると、相手がどのタイミングでじっくり考えるかで
相手の強さがわかる。
だいたい3パターンある。
一手一手じっくり考える、
ピンポンのようにすぐ打ち返す、
じっくりとピンポンの混合、この3つだ。
混合タイプも、どこでじっくり考えるのかで強さがわかる。
自分の失敗に気づいてから考えるのか、
失敗しそうな手前で考えるのか。
失敗しそうな手前を見分ける力が囲碁の力といえる。
これは囲碁に限らずいえることかもしれない。
今日対局した小学2年生の男の子は、棋力は初段ながら
見事なタイミングであちこちで手が止まった。
こちらがワザを仕掛けるちょっと前のタイミングで、
いままで打っていたポンポン打つリズムを崩して
じっと腰を落ち着けて考えるのだ。
この落差、このタイミング、とても8歳児とは思えなかった。
この子の成長が楽しみだ。
2017/10/19
囲碁界では白番(上手)の打ち方論があまり発展していない。
8子、9子といった多石置碁では勝負を楽しむというより
指導碁の雰囲気がただよう。
これは何ともったいないことか。
たくさん置かせる白番でも十分対局を楽しめるし上達の糧にもなる。
自分が3千局の置碁を打った経験から編み出した「天空流」。
これは中央から打ち始めることで「両にらみ」ポイントを次々と移動させ
盤上のあちこちで「未完成」をつくり、その味の融合で
勝負にもっていく打ち方だ。
僕のサイト「石音」では毎週木曜夜、『天空流講座』を開催している。
どなたでも参加できるので、
お試しIDを取得して一度のぞきにきて頂きたい。
囲碁サイト石音 http://www.ishioto.jp/
天空流とは(動画あり)http://www.ishioto.jp/sekitei/#link02
2017/10/18
二度目の井山七冠が誕生した。
将棋の羽生七冠誕生のときを思いだす。
たしか一度目の七冠挑戦を失敗して、そのあと1年、六冠全部防衛して
残る一つの挑戦者になって達成した。
20年前のあの時、劇的なストーリーに激しく心を奪われた。
今回はそれに「ガツン」という衝撃が加わった。
将棋と囲碁ではタイトル数はほぼ同じだが、棋士の数が3倍違うのだ。
将棋も囲碁も関心が薄い妻が言う。
「それって藤井さんの29連勝と比べてどうなの」
それよりは確実に凄いんだ。
井山はこの1年、タイトル戦で同じ29局戦っているけど5敗しかしてない。
同じ29局でも相手のレベルが桁違いだからね。
力説すればするほど、相手に伝わってない感がこちらに伝わってくる。
「でも世間は七冠よりも29連勝のほうがすごいって思ってるわよ。
わかりやすいから」
そう、すごさの伝達はロジックではなく感性なんだ。
そして良質なストーリーも必要だ。
優れた表現者が現れるのを待つことにしよう。
2017/10/13
この9年間。いままで何局教えただろう。
87歳にして、もう少し、もう少し強くなりたい
という気持ちを常に持ち続けている。
今日、久しぶりに負けた。
いつも勝ちたい勝ちたいと言ってるその方の局後の声のトーンは、
意外と落ち着いたものだった。
高揚する気持ちを押さえているのはわかった。
僕は指導碁といえども、相手が高段者であれば
全力で勝負にこだわることにしている。
「今日は勝ったよ」
ちょっと得意げに奥様に報告する様子をみて、嬉しくなった。
これほど喜んでもらえるなら時々…。
ふだん心の奥にしまってある「葛藤」のボルテージが
最高潮になるのはこんな時だ。
2017/10/07
囲碁普及に燃えるシニアに会った。
その方は自宅で囲碁教室も開いている。
老舗碁盤店や碁石店にカラー碁石や
センスのいい皮の碁盤を作らせていた。
自分でも鹿の皮をなめした碁石袋や
それを入れる漆塗りの紙箱なども創っていた。
囲碁は19路だと大きくて、碁石碁盤もイメージが渋すぎるから
とっつきにくい、と力説していた。
その通りの面はあると思う。
今までこういった、女性に人気が出そうな小さくてお洒落な碁盤や
碁石をたくさん見てきた。
しかし売れ続けているものは一つもない。
それで碁が広まったという話も聞かない。
理由は単純だ。
「やらない理由を解決しても、やる理由にはならない」
からだ。
普及にもっていくには
「やる理由をつくった上で、ほんのスパイス的にやらない理由の解決を使う」
しかない。
最難関の「やる理由」に力の98%を傾ける必要があるのだ。
これが出来そうでなかなか出来ない。
気づきそうでなかなか気づけない。