2017/09/18
敬老の日に思う。
子供の頃から、お年寄りは敬いなさいと教わって僕らは育った。
しかし「敬う」の本質は教わらなかった。
なぜそう言えるのか。
それは「〇〇を敬いなさい」という教えそのものが「敬う」を
理解していないからだ。敬うとは自発的なもので、強制されるものではない。
敬老を教える際の例で「電車の中で席をゆずる」があった。
だがここで教えるべき精神は「敬う」ではなく「思いやる」だ。
シルバーシートに座っている元気なシニアが、体調の悪そうな若者に
席をゆずってもいいし、シニア同士でゆずりあってもいい。
大事なのは年齢関係なく思いやる心だ。
「敬う」の本質から離れて「敬語」や「お辞儀」といった技術が
広まった結果、それらは感情の伴わない自己防衛の道具となった。
こうして「敬老」が「敬老しない社会」を創ってしまった。
では僕らはこれからどうすればいいのか。
「敬う」から始めないことだ。
「敬う」をゴールの一つにすることだ。
人が人と触れ合い、感情のやりとりが密になるに従って湧いてくる
親しみや友情。その向こうに自然と生まれるのが「敬う」なのだ。
2017/09/17
昔に戻ると新しい。
中村勘三郎の言葉だ。自分の忠臣蔵は、親父の前の台本を使っているのに
新しいと言われるのが面白いと言っていた。
そういえば、オープンカフェって20年ぐらい前から流行ったが、
時代劇を見る限り江戸時代の茶店は皆オープンだった。
哲学者ヘーゲルは「物事の発展は古いものが新たな価値とともに
復活しながら起こる」(らせん階段的)と言っていた。
これから「新しさ」を感じるネタは江戸時代に多くヒントがある。
江戸時代は「老」が大事にされる社会だった。
偉い人は「老中」「大老」と呼ばれた。
そして「老後」とは言わず「老入(おいいれ)」と呼んで、
「老」を終着点ではなく入口と捉えて前向きだった。
現在、「老」が本当に尊ばれているとは言い難いが、
これから「老」をポジティブに捉える、新しい価値観が
どんどん生まれていくだろう。
2017/09/11
石音を始めて12年。
ひとりでずっと電話応対を続けてきた僕は
シニアのPCサポートには少し自信がある。
電話のむこうでどんな状況になっているのか。
詳細の説明が期待できない中、想像で原因をつきとめて
カタカナを使わずに解決にむかう。
昨日訪問したばかりの87歳のシニアから今日電話があった。
PCの電源がつかないという。
いつものサポートと違って、自分が見たばかりのPCのことだ。
電話がかかってきたときすぐに解決できるとふんだ。
電源コードはきちんとPCにささってますか?
延長コードの元はコンセントにきちんとつながっていますか?
PCの電源をゆっくり5秒ぐらい押してますか?
いずれもYES。
それでは別の部屋にもっていってどうですか?
状況変化なし。
うーむ。昨日一緒に作業したとき、PCに問題は感じられなかったなぁ。
しかしほかの原因が考えられないなら、本当に壊れてしまったのかも。
僕は一旦原因追究をあきらめた。
その人は僕との電話のあと自分で家電量販店にもっていって診てもらい、
原因はすぐにわかった。
「PCの電源コードが他のPCのものです」
なんでこんな簡単なことに気づかなかったのか。
それは「見る」が「聞く」より、解決に有効だと決めつけていたからだ。
いつもの「聞く」だけのほうが一生懸命頭を働かせていたのだ。
百聞は一見にしかず。その逆もまた真なり。
2017/09/08
人材紹介会社はコンビニよりも数が多いというが、
そのなかでも数少ない「シニア専門」の人材紹介会社を
6年前にたちあげ奮闘している方がいる。
かい援隊の新川さんだ。
http://www.kaientai-h.co.jp/about/message.html
私より20歳年上ながら、エネルギッシュに語る
その言葉にはいつも力がある。
シニアは社会の名脇役。
この考え方に強く賛同する。
名脇役になりうる多くのシニアが、心のどこかで
「出番です!お力貸してください」
と頼まれるのを待っている。
彼らを発掘して、その経験が活きる企業とマッチングする。
単なるマッチングでは中々うまくいかないだろう。
そもそもどうやって発掘するのだろう。
こんな取り組みを事業にできないだろうかと考えているとき、
ワクワクする自分がいる。
囲碁を通して人一倍、素敵なシニアと交流してきた自分が
「やらねばならぬ」事業だから。
2017/09/07
ここ数年、聞こえてくる鐘の音がどんどん大きくなっている。
暴走老人・下流老人など新しい言葉を冠した著作が売れた。
著者は何とかもっといい社会をという熱い想いで警鐘を鳴らしているのはわかる。
しかしシニアを、高齢化社会をポジティブに捉える論調が不足しているように思う。
警鐘という鐘は耳目を集める効果が高い。テレビや週刊誌などは、その成り立ちの性格も
あってどうしても鐘を鳴らす側にまわるのは仕方がない。
だからこそ、僕らは意識して鐘を鳴らさない側に座りたい。
鳴らしすぎると社会全体が必要以上に暗くなり、本質も見えなくなる。
その鐘を止めるのはあなた、なのだ。