2015/05/10
ご存じの通り、恋愛に関しては失敗ばかり、初心者の寅さん。
しかし恋愛に悩む若者に対しては、
「お前いいか、芸者は座敷で口説くもんだ」
上から目線で達人のごとく。
旅先で義弟のお父さんに、今昔物語を紹介された。
「えっこんにゃくが何だって」
しかしその数日後、義弟に諭すように言う。
「いいか、これは今昔物語といってな」
まるで小さい頃から人生の書にしてきた人の口ぶり。寅さんの話を聞いた相手は、
すっかり心を動かされる。映画を見ている側は当然、
「どの口が言うか、自分を棚にあげて」
となってそこがユーモアのツボだ。自分を棚にあげる。気づかない人のことだ。
「あなたの声を聞かせてください」
役所によく置かれている、みんなの意見箱。見つけた寅さんは、「あっ」と大きな声
をその箱に聞かせる。当然何も返答がない。首をかしげて立ち去る寅さん。
全く気づかない。見ている側はほっこりする。笑いが起きる。
中国は北京。昔楽しい買い物をした。一軒のジーンズ屋に入った。店内は外国人や
地元住民でごったがえしていた。 リーバイスやLeeが所せましと並んでいた。
値札を見ると460元(当時6500円)とある。店内は、せますぎて試着室はない。
店主だろうか。肝っ玉母さん風の女性が出てきた。頼んでもいないのに、メジャーで
僕のサイズを測りはじめた。こうされると、だんだん買う気になるのが不思議だ。
値段交渉が始まった。僕はいきなり100元でどうかと言ってみた。
にせもの天国の街、大胆にいくのが定石だ。さてどんな反応が返ってくるか。
「あんた、これ本物のリーバイスよ。知っているのかい。
100元なんて無茶言わないで。200元でどう?」
少し怒ったような彼女の真剣な顔が、おかしくてたまらない。
いったい最初の値札は何なのか。本物のリーバイス、なぜ3000円を切るのか。
言っている本人が全く気づいていない。
結局その「本物のリーバイス」は、150元(当時2100円)で手に入った。
翌朝チャック上部のボタンが綺麗に取れた。
「先輩もよく頑張りましたよ。以前より成長したと思いますよ」
大学時代、こんなテニスの後輩がいた。なぜか上から目線でいつも褒められた。
憎めない後輩だった。上から目線に自分で気づいていない。だから憎めない。
気づかない人。少し迷惑な人もいるだろう。少し変な人もいるだろう。
だが愛すべき人もいる。愛すべきキャラの人は、たいてい気づかない。
どちらかといえば、それは気づいたほうが人生楽しいかもしれない。
しかし気づかなくても楽しめる人がいる。愛される人がいる。
寅さんは気づかなかった。そして誰より愛された。
2015/04/24
どうやら囲碁を小さい頃からやってきたことが、原因のようだ。
あの頃、毎週末のように近くの碁会所に出かけた。中学生の僕でも、父や祖父
ぐらいの年齢の方と楽しく交流できた。歳が上ということでかしこまる習性。
全く身につかないまま大人になった。いや、正確にいえば、身についていない
自覚すらなかった。社会人になって、同僚が年配の方と話をしている様子を見て
気がついた。なんで皆こんなに、かしこまっているのだろう。
歳ではなく中身で付き合う。年上の方に対して礼儀はわきまえる。人生の先輩
であることにリスペクトは当然だ。しかしそこから先は、何歳違おうと人対人の
付きあいだ。
「俺を年寄扱いするな」
「俺を若造と一緒にするな」
多くの年配の方は、こんな矛盾を心の奥に持っている。かしこまりすぎるのも駄目。
無礼なのももちろん駄目。普通がいいのだ。このことに気づいて普通に行動できる
同世代が、圧倒的に少ない。僕は意識して身につけた覚えがない。
社会人になった。「年齢」に加えて「役職」というもう一つの階段が登場した。
僕は年齢と同じく、もう一つの階段もあまり気にならなかった。新人の時、
自分の席は廊下に近かった。課長の席まで5mあった。5m進むのに20年。
1年で25cm。ウェゲナーの大陸移動説では、年に何cm動くのだったか。
そんなことを入社日に考えた。年齢だけでなく、役職の階段もあまり気にならない。
囲碁の副作用というべきか。社会人にとっていい副作用かどうかは分からない。
新人研修で基本的なマナーは教わった。失礼にならないよう日々振るまうことは、
簡単だった。しかし小生、小職。こうした小の文字をつける習慣には馴染めなかった。
毎日毎日、小、小、小。いったいどれだけ小さいのだ。
本当に自分が小さいと、相手が大きいと思っているのか。
「一目を置く」という言葉をご存じだろう。一目とは一個の碁石の意味。囲碁では、
弱い方が最初に一目置いてから対局を始める。そこから、相手に敬意を払う、の意で
使われるようになった。社会に出て不思議な現象に遭遇することが増えた。
一目を置くのは「置く」だから、自分のはずだ。しかし時に、一目を置いてくれと
頼まれるのだ。「置く」から「置け」へ。おかしな話だ。敬意は発露するものである。
強制されるものではない。
それが人ではなく建物ならば別だ。頭を下げなければ入れない茶室。地位をリセット
して一人の人間として入ってきてほしい。そんな感情がデザインされている。
素直に一目を置く気持ちになる。
仕事中だろうが監獄の中だろうが、他人が決して制御できない場所が一つある。
それは頭の中である。心である。その自由な場所への侵略者とは、断固闘わなければ
ならない。そうでないと生きている意味がない。ただ年上というだけで、かしこまる
習慣。相手への特段の敬意なく、自分に小をつけてしまう習慣。こうした積み重ねが、
敬意の強制というおかしな現象を起こしているのかもしれない。
僕はこれからも、囲碁に携わる者として矜持を持とう。自分で一目を置いていくのだ。
2015/02/21
高尾の2つ前、京王線めじろ台駅。半年ぶりだ。
息が白い。都心の気温より5℃低い。
ここに降りた時から、それは始まっている。
実家まで徒歩5分。その5分で時間がどんどん、さかのぼる。
僕のために、少し大き目に造られた玄関の扉を開ける。
「あらお帰り。お茶淹れてあげるから、炬燵で暖まりなさい。」
毎日ここに住んでいるかのようだ。
あれから20年。ここでは僕は、息子のままだ。
数年前から指定席が「上席」、テレビの正面に変わった。
立ったり座ったりが億劫になったのだろう。
親父があまり座らなくなった。
席が良くなって、少し寂しくなることもあるのか。
そしてお袋は買い物に、親父は散歩に出かけた。
木製の大きな置時計。針の音が今日は大きく聞こえる。
冬の光が縁側の鉢植えを、優しく照らしている。
いま一人お茶の時間。ここで起きた「事件」が蘇る。
16年前の大晦日。
妹が作ったデザートの杏仁豆腐。
慣れないキッチンで砂糖と塩を間違えたらしい。前代未聞の味。
その衝撃の余韻が冷めやらぬ時だった。
「この人と結婚したい」
突然、彼女が1枚の写真を出してきた。
僕より5歳年上、192cm。青い目の大きな「弟」候補。
先週初めて会ったばかりだと言う。
家族は皆、そこからあの日の紅白の記憶がない。
自称六段の弟と、『兄弟3番勝負』。
正月の恒例行事だった。そして5級の親父が毎度の台詞。
「そんなところに打つのか。
お前たちはまだ何も分かってないな。」
「ほんとそうだねー。」
僕ら2人は盤面から目を逸らさない。
高段者は手抜きの技を知っている。
この光景、弟に娘が出来てここ数年はおあずけ。
少し残念だ。
就職、転職、結婚、起業、離婚・・。
僕の全てを見てきた、唯一の場所。
時間が戻った気になる、一番の場所。
ところで、夏のお気に入りの場所はどこなんですか?
そうか。その手があったかー。
それは夏にまた話しましょう。
2014/11/19
真に熱い人が冷静に語るとき、伝わるものがある。
こんな真理を感じる人もいるだろう。
錦織の活躍で、最近松岡修造のテニス解説を聞く機会が増えた。
しかしあの修造が愛弟子、錦織の試合を解説するとき
「熱くない」のである。
修造といえば、オリンピック中継やスポーツ解説で笑っちゃうぐらい熱いので有名だ。
CMで「テニスやってたんですか」とネタにされるほど、いまやテニス界というより
スポーツ界全体の応援団長として活躍している。
その彼が本業のテニスの解説の時「熱くない」のである。
しかしその熱くない解説が、とてもいいのである。
なぜいいのか。次の3点から見て取れる。
1. 空気を読まない解説
2. リスペクトのある解説
3. オフのある解説
1. 空気を読まない解説
「今日の相手とは圭ははっきり言って分が悪い」
試合前の修造の発言に驚いた人も多いだろう。
サッカーワールドカップの日本戦で、あの熱狂的な試合前の雰囲気で
「今日の日本は負けるかもしれません」
と言う勇気があった解説者がいただろうか。
当然修造は、視聴者全員が錦織を応援していることを知っている。
そして自分も圭の勝利を日本一願っている応援団長であることも自覚している。
そこでいつもの通り「勝てる、お前ならやれる!」を出すことも出来ただろう。
しかし彼は自分を抑えた。テニスのプロとして、そして解説のプロとして、
空気に飲まれずに、空気を読まずに冷静にコメントした。
意表をつくこの言葉から始まった彼の解説を、
視聴者は信頼感を持って聴くことが出来たに違いない。
プロ野球の試合で解説者が、打者が空振りしたあと
「今日の〇〇投手は球が切れてますねー。調子がよさそうです。」と言う。
しかし視聴者からすれば、空振りの前にこのコメントが欲しいのだ。
仮に打たれても、球が切れていればそうと、調子がよければそうと解説してほしいのだ。
修造の解説は一球一球、結果ポイントにつながったかとは関係なく発信されている。
「圭の今のショットは相手が取れなかったですが、これを続けると危ないです。」
「圭の今のリターンはネットにかかりましたが、これでいいのです。続けるべきなのです。」
空気を読まず流されず。冷静な発信の継続が視聴者に大きな説得力を与えている。
2.リスペクトのある解説
「圭は僕の師匠なんです。」
この言葉、何回聞いただろう。修造が錦織の試合を解説するたびに発信されている。
修造もテニス日本一を10年守った男である。
日本の個人スポーツで10年トップを張り続けた人が何人いるだろう。
その彼が、20歳以上年下の錦織を、公共の場で「師匠」と言う。
「僕は精神面しか教えられませんでした。テニスを教えてはいけなかったのです。
それぐらい才能は飛び抜けていました。」
これを小学生の錦織に感じて実行出来た修造が、凄いと思う。
どんな分野でも解説者は通常、プレーヤーと同等かそれ以上の実績、格のある人が
選ばれる。その場合、解説者が意図してなくても、その発言、発信が、
所謂「上から目線」になってしまいがちである。
選手に対するリスペクトがベースにある解説は、聴く側に安心と信頼をもたらしている。
そして聴いていて気持ちがいいのだ。
3.オフのある解説
「解説をしないという解説」
雄弁で熱い松岡修造ならではの武器なのかもしれない。
修造の解説には、はっきり「オンとオフ」がある。
オフとは「何もしゃべらない時間」のことである。
何もしゃべらないというのは、言葉につまってとか、しゃべり疲れてというものではない。
意図してしゃべらないのである。
今までワンポイントずつコメントしてきたのに
急に数ゲーム連続で無言になるのである。
「ここは黙っていますので観ててください」と言ってから黙るのではない。
何も言わず前ぶれなく急に「ただ黙る」のだ。
修造が誰よりもテニスを愛するからこそ伝わる、沈黙の力。
オフのある解説は、ずっとオンの解説よりも力がある。
誰よりも熱い男、松岡修造。
その彼が熱さを捨てた時、3つの点から解説の質が格段にアップした。
そして試合後のインタビュー。
錦織に対して16秒間、修造は無言で拍手し続けた。画面に修造は映らず錦織のまま。
これは放送事故か。
いや、試合後にまた、あの熱い男が戻ってきた瞬間だった。
2014/07/16
最近見なくなりましたが、数年前「一発屋」と呼ばれる芸人が
出ては消えという現象が続きました。最近その理由が分かった気がします。
彼らの芸には相手に対する「敬意」がないのです。
(その芸人に敬意力がないということではなく芸がそうなっている)
一発屋の芸は分かりやすさ、短さ、インパクト重視。
と同時に時や相手を選ばずいつでも同じものです。
一方、長く売れ続ける芸人の芸は相手に対する敬意があります。
その日その相手だからというトークに比重を置いているのです。
備わっているのは聞き手を飽きさせないカスタマイズ力です。
先日のサンデージャポンで太田光がことあるごとに号泣マネしてこちら爆笑。
事前の準備が出来ない、さんまのクリスマス電話が長寿番組なのも分かります。
そうです。
みんなカスタマイズを求めている!
囲碁界に目を移すと、インストラクターが、相手が年配であれ中年であれ若者であれ、
同じように「丁寧親切に」教えています。
その日その相手でなければならないトーク、どれぐらいの人が実践しているでしょう。
僕ら囲碁業界人は皆、カスタマイズ力アップを目指すべきなのです。