2015/04/24
どうやら囲碁を小さい頃からやってきたことが、原因のようだ。
あの頃、毎週末のように近くの碁会所に出かけた。中学生の僕でも、父や祖父
ぐらいの年齢の方と楽しく交流できた。歳が上ということでかしこまる習性。
全く身につかないまま大人になった。いや、正確にいえば、身についていない
自覚すらなかった。社会人になって、同僚が年配の方と話をしている様子を見て
気がついた。なんで皆こんなに、かしこまっているのだろう。
歳ではなく中身で付き合う。年上の方に対して礼儀はわきまえる。人生の先輩
であることにリスペクトは当然だ。しかしそこから先は、何歳違おうと人対人の
付きあいだ。
「俺を年寄扱いするな」
「俺を若造と一緒にするな」
多くの年配の方は、こんな矛盾を心の奥に持っている。かしこまりすぎるのも駄目。
無礼なのももちろん駄目。普通がいいのだ。このことに気づいて普通に行動できる
同世代が、圧倒的に少ない。僕は意識して身につけた覚えがない。
社会人になった。「年齢」に加えて「役職」というもう一つの階段が登場した。
僕は年齢と同じく、もう一つの階段もあまり気にならなかった。新人の時、
自分の席は廊下に近かった。課長の席まで5mあった。5m進むのに20年。
1年で25cm。ウェゲナーの大陸移動説では、年に何cm動くのだったか。
そんなことを入社日に考えた。年齢だけでなく、役職の階段もあまり気にならない。
囲碁の副作用というべきか。社会人にとっていい副作用かどうかは分からない。
新人研修で基本的なマナーは教わった。失礼にならないよう日々振るまうことは、
簡単だった。しかし小生、小職。こうした小の文字をつける習慣には馴染めなかった。
毎日毎日、小、小、小。いったいどれだけ小さいのだ。
本当に自分が小さいと、相手が大きいと思っているのか。
「一目を置く」という言葉をご存じだろう。一目とは一個の碁石の意味。囲碁では、
弱い方が最初に一目置いてから対局を始める。そこから、相手に敬意を払う、の意で
使われるようになった。社会に出て不思議な現象に遭遇することが増えた。
一目を置くのは「置く」だから、自分のはずだ。しかし時に、一目を置いてくれと
頼まれるのだ。「置く」から「置け」へ。おかしな話だ。敬意は発露するものである。
強制されるものではない。
それが人ではなく建物ならば別だ。頭を下げなければ入れない茶室。地位をリセット
して一人の人間として入ってきてほしい。そんな感情がデザインされている。
素直に一目を置く気持ちになる。
仕事中だろうが監獄の中だろうが、他人が決して制御できない場所が一つある。
それは頭の中である。心である。その自由な場所への侵略者とは、断固闘わなければ
ならない。そうでないと生きている意味がない。ただ年上というだけで、かしこまる
習慣。相手への特段の敬意なく、自分に小をつけてしまう習慣。こうした積み重ねが、
敬意の強制というおかしな現象を起こしているのかもしれない。
僕はこれからも、囲碁に携わる者として矜持を持とう。自分で一目を置いていくのだ。