2022/08/14
年末が近づいてきた。
何年か前の紅白を実家の掘り炬燵で見ていたときのことだ。
台所の片づけを終えた母がやってきて隣でミカンを食べ始めた。
「最近、大勢のグループが増えてわけわかんなくなっちゃったわ」
画面にはAKBが映っていた。
シニアは1人、多くても2人か3人までの歌い手が好みのようだ。
続いてエグザイルが登場した。
「あら、このエグザイルにAKIRAっているでしょ。
うちの浩(弟)に似てると思わない?」
―(ずこっ) いまわけわかんないって言ったばかりでしょ…。
「そうそう、あとHIROSHIもいるでしょ。だけどHIROSHIは
明(僕)には似てないのね。ややこしいわ、ほんと」
―(結構くわしいじゃん) ややこしくないでしょ。
それにHIROSHIじゃなくてHIROでしょ。
母はそのあとも僕のつっこみを無視してつぶやき続けた。
3年前に両親をつれて伊豆の温泉宿に行ったときのことだ。
チェックインしたあとラウンジでくつろいでいた。
「伊豆にはよく来るんだ。囲碁合宿とかでね。食事は夕食も
バイキングだったな」
僕が何気なくいったことばに父が反応した。
半分ほど飲み干した生ビールのグラスを右手に持っている。
「私はあのバイキングとか食べ放題とかいうのは嫌いです。
なんかいやしい感じがしませんか。少しでも元をとってやろうという」
つれもいるからか丁寧語だが、相変わらず極端な意見だ。
「いや、そうかな。今は食べ放題というより、好きなものが
選べるっていうニュアンスが強いけど。高級旅館でも朝食は
ビュッフェ形式が多いよ」
父は僕の返しには答えず続けた。
「ところで明、ここは何杯飲んでもいいのかい。
それじゃビール、もう一杯だけもらおうかな」
隣でつれが爆笑している。
「自分のことを棚にあげる」
僕の棚がいつも斜めになっている原因を見つけたようだ。
ふとこんなことを思った。
10回もボケればさすがに「わざと」だとなるだろう。
だから「と」ぼけるは「ボケる」が進化したものだ。
ほんとうだろうか。
僕のまわりには「とぼける」の達人が多い。
囲碁仲間のKさんは、水彩画の教室に通って4年になる。
発表会に行くと毎回珈琲豆を帰り際に渡してくれる。
「あっそうそう、そういえば珈琲は飲むかい。
これたいしたもんじゃないけど」
あたかも今さっきもらったものだけどよかったら、
と、なんとも軽いが、中身はかなり高級な豆だったりする。
きちんと準備している。
いまでは豆より毎度のやりとりが楽しみだ。
嬉しい気持ちを簡単には手に入らない豆にこめるのも、
たまたま持っていた風で渡すのも、照れ隠しなのだろう。
僕のサイトの会員さんでいつも季節ごとに贈り物を
届けてくださる方がいる。事前にメールがくるのだが、
「のしはつけません」とある。
だが届いた品物にはきちんとのしがかけられていて、
ひとこと「楽しさの御礼」と書かれている。
のしのくだりにパンチが利いて、心に嬉しくひびく。
長年公私にわたり親しくさせて頂いた方のお宅には
何度も伺った。(前連載「最初の夏休み」の鈴木さん)
3回目ぐらいだろうか。奥様から印象的な一言を頂いた。
「あなたはもうお客様扱いしませんから」
いったい次回はどうなるのだろうと興味がわいたが
それ以降もかわらぬ丁寧なもてなしが続いた。
それは僕に余分な気を使わせないための一言、
いわば、気づかいを気づかせないようにする
気づかいだった。
僕は得な性格かもしれない。
わざとボケているわけではないものを、座布団一枚!
と勝手に拍手して楽しい気分を味わうことができる。
横浜の港に浮かぶ氷川丸。昭和初期に活躍したこの船は
いまはそのまま博物館のように見学できる。
チャップリンも泊まったという特等室を見たあと
順路にしたがい「喫煙室」と書いてある部屋に入った。
テーブルにはあるものが置いてあった。
「禁煙」
この部屋でなければ目に留まらないはずの小さな札。
僕には後光がさして見えた。そっと座布団を置いてきた。
先日スーパーで買い物中、ふと目にとまった札があった。
「味噌人気NO.18」
ん?普通はNO.3ぐらいまでだが18?
数えると味噌の棚には30種類ほど並んでいた。
18番目は偏差値でいえば45というところか。
この札がついていない味噌がほとんどのなか、
特段人気をアピールする理由が見つからない。
18という数字に意味があるのかな。
「おはこ」だったっけ。
その左上に人気NO.16もあった。
うーん。これは本当にわからないぞ…。
座布団を出そうか出すまいか。
僕は腕組をしたままその場に立ち尽くした。
競争が激しい業界としてまず思い浮かぶのは飲食だ。
僕らはいつも、安くて美味しいものを日々探している。
提供する側も力の限り工夫する。
安くて美味しい。それは値段とネタ。
選ぶときの視点があと一つある。
それはギャップだ。
見たことないという普通とのギャップ。
そして、予想以上という期待とのギャップ。
お値段以上、は単なる宣伝文句だが、
予想以上、はちゃんと惹きつける力がある。
以前居酒屋で「刺身三点盛り」を頼んだとき、
出てきたものを見て、あっこれ頼んでませんと言ってしまった。
その皿には刺身が「3切れずつ」6種類並んでいた。
店員は慣れた様子で
「はい、これがうちの三点盛りなんです」とにこり。
値段を見て三点盛を頼んだら、六点でてくる。
嬉しくないはずがない。
海鮮の鮮度も量も申し分なかったが、
メニューで「ボケ」ているのがさらに好印象だった。
もう一つ。
阿佐ヶ谷の駅前から続くパール商店街に人気の
たいやき屋がある。
そこで目にしたのが
「たいやきの開き」
はじめて見たとき、?が3つ頭の中で点滅した。
なぜ開く必要があるのか。
アンコはどこにいったのか。
どんな味がするのか。
およげないたいやきくん。
素敵なボケだ。
子供の頃、たい焼きは皮が好きだったのを
思い出させてくれた。
ありがとう。
当欄で以前、わざとボケているのか天然なのか見分けが
つかない人がいるという話をした。
そんな高度なボケの選手権があったら日本代表のひとりと
おぼしき人と、先日同じ道のりを歩くひと時があった。
年末も差し迫った晴れた日、伊勢神宮の外宮へお参りに
むかった。朝9時半頃なので人もまだそれほど多くはない。
入口近くで信号待ちをしていたとき、ふと斜め後ろに目をやると
見覚えのあるシニアがいた。大学教授風の男性と2人だ。
バス旅で人気を博したその人の番組は最近、彼の年齢を理由に
終了となったと聞いた。
「〇〇さんがいる」
振り返らず声をひそめてつれに言う。
こういう場合、こちらが気づいていると先方に知られるのも
気はずかしい。彼女もさりげなく目線をむけて確認する。
「本人かな。声きかなきゃわかんない」
そりゃそうだ。まぁそうだとしてもプライベートだろうから
じろじろ見たら申し訳ない。特にファンでもないのであまり
気にせず、僕らは自分のペースで外宮の鳥居をくぐり
歩みを進めた。
こちらが手水に寄っているあいだに追い抜かれたようだ。
彼らは少し前を歩いていた。
すると、お参りを終えてこちらに向かって歩いてくる人たちが、
前を歩くその2人組とすれちがいざま、ざわざわしだした。
あれ、〇〇じゃない?
そうよね。本人だよね。
えー、だとしたら年末に縁起いいじゃん。名前からして(笑)。
やはり本人のようだ。
外宮は10か所ほどお参りする箇所があるが、その順番が
決められている。特にあわせたわけでも、気にして歩いている
わけでもないが、どういうわけかスタートから4連続で彼の真横、
真後ろといった至近距離で手をあわせることとなった。
真後ろで順番を待っているとき、彼の右手に一万円札が折って
握られているのに気づいた。
「おい、万券だよ‥」
「しっ、聞こえるじゃない」
つれに小声でたしなめられる。
10か所もあるしまさか全部じゃないだろうな。
それ以降、彼がお賽銭箱に手を伸ばしたときに硬貨の音が
するかつい確かめてしまった。音はしなかった。
見ていると同行の男性に参拝の仕方や作法を教わっている。
少し落ち着かない様子だ。こうした場所に慣れていないか
今日が初の伊勢参りに違いない。
その夜、彼のブログを確かめて驚いた。
今日の伊勢参りのことも書いてあったが、なんと伊勢は
大好きな場所で、ここ何年も毎年少しの時間を見つけては
お参りを続けていた。伊勢の常連でもあり、奥様の影響を
受けて神社参拝も趣味のようなのだ。偶然だが、数日後には
伊勢神宮をゴールにした過去のバス旅のTV放送もあった。
終始腰が低く、サインや写真を求められてもニコニコ笑顔で
自然に応対していた。芸能人のオーラをまったく感じなかったが、
同時に、どう見ても伊勢神宮の常連とも趣味が神社参拝とも
思えなかった。
これが、「わざとと天然の間」で生きる人の技術なのか。
と勝手に納得した。
驚きは向うからやってくるものではない。
こちらから身を乗り出してびっくりしないと、
気がつかないうちに行き過ぎてしまう。
五木寛之氏の「生き抜くヒント!」にあった。
この「驚き」を「ボケ」に変えてもいいと思う。
効率と正解を求めて、損をしないように動く癖がついた僕らは、
面白いものを自分で探す嗅覚が衰えてしまった。
ネット上に溢れる「誰にとってもわかりやすく面白い」
コンテンツに慣れた結果、面白いかどうかを発信者任せにする
受け身の姿勢が身に着いた。
まずスマホを置こう。
身の回りの小さなことに目をとめて自分で面白さを
見出してみよう。
たとえばあなたは周囲のシニアから、上質な「ボケ」が
日々発信され続けていることに気づけるだろうか。
もちろん本人にその自覚はない。
だが世代が違う僕らから見ると、それは立派な
創造力に溢れたボケになる。
口うるさい爺さんだなぁと思ってなるべく近くに
寄らないようにしていた人の、ちょっとした個性を
かわいいと思えるようになったとき。
それは彼の性格がかわったわけではなく、
あなたのボケ受信力があがったのだ。
ボケるとは、つまるところ、無駄を楽しむ心の余裕だ。
いま、発信者ではなく受信者の心が試されている。
(もっとボケよう 完)