2017/09/18
敬老の日に思う。
子供の頃から、お年寄りは敬いなさいと教わって僕らは育った。
しかし「敬う」の本質は教わらなかった。
なぜそう言えるのか。
それは「〇〇を敬いなさい」という教えそのものが「敬う」を
理解していないからだ。敬うとは自発的なもので、強制されるものではない。
敬老を教える際の例で「電車の中で席をゆずる」があった。
だがここで教えるべき精神は「敬う」ではなく「思いやる」だ。
シルバーシートに座っている元気なシニアが、体調の悪そうな若者に
席をゆずってもいいし、シニア同士でゆずりあってもいい。
大事なのは年齢関係なく思いやる心だ。
「敬う」の本質から離れて「敬語」や「お辞儀」といった技術が
広まった結果、それらは感情の伴わない自己防衛の道具となった。
こうして「敬老」が「敬老しない社会」を創ってしまった。
では僕らはこれからどうすればいいのか。
「敬う」から始めないことだ。
「敬う」をゴールの一つにすることだ。
人が人と触れ合い、感情のやりとりが密になるに従って湧いてくる
親しみや友情。その向こうに自然と生まれるのが「敬う」なのだ。