石音インストラクターブログ

2015/10/03

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『全自動洗濯機』

我が家にドラム式の全自動洗濯機が登場したのは、今から10年ほど前。
洗濯から乾燥までをボタン1つで可能にしたその機械は、我が家に家事革命を起こしました。

新婚当初、国道246号近くのマンションに住んでいました。車の排気ガスのため、
洗濯物を部屋干しせざるを得なかったのですが、どうしてもあのナマ乾きの臭いが
気になって仕方がなかったんです。

そこに登場したのが、ドラム式全自動洗濯機の「ぜんじ」さんです。
「善二」さんは毎日昼夜を問わずしっかり働き、我が家から「ナマ乾き」なる単語が消えました。
現在は2号機「善次」さんが活躍中。
彼氏の良いところは、私の言ったことを忠実におこなってくれるところです。
何せ私の命令に背いたことは、今まで一度もありませんから。
掃除機は数年前に「ルンバ」君なる輩が登場し、勝手に動き回る彼氏は、
私を部屋の隅にあっという間に追い込んで来ます。
今ではルンバ先生のために、床掃除をしている私です。
我が家で私の言うことをきいてくれるのは、もう「善次」さんだけです。。。
(哀(たまに大きな独り言をいってますが)

さて、私の話はそのくらいにして、囲碁の話に戻りましょう。
前回は「攻めの大事さ」についてお話しました。

簡単におさらいすると、攻めることで着手の選択権を保持し、自らの選択から
実体験を積むことで碁の理解が進む、という内容でした。
逆に、相手の着手に受けてばかり(守ってばかり)では、自分で着手を選んでいないので
学習効果が薄い。昔なら「気合が悪い!」と着手の善悪を超えて根性論的に
指導していましたが、あれは正解だったんです。
たぶん昔の人は、経験的に学ぶ姿勢を理解していたんでしょうね。

選択権を保持することの大事さは、普段の教室でもよく指導しています。
「盤上は好きなもの買っていいよ~状態です。どんどんお買い物してちょうだい。」
「お友達の買い物に付き合って、ついで買いしちゃダメですよ。ちゃんと選んでくださいね。」
などと言って、ご婦人方に説明しています。
自由を手にした生徒さん達は、皆さん楽しそうに対局しています。

そんな中、ひとりのご婦人が
「好きなもの選んでいいと言われても、何を選んで良いか困る。」
と言ってきたのです。正直私はビックリしました。
普段の生活にあまり選択権のない私は、選択権=幸せ だと勝手に思っていたからです。
しかし実際は、選択権があるがゆえに迷いが生じ、決断に困ってしまうというわけです。
う~ん、贅沢な悩みです。

選択権があると、幸せに感じるときと逆に負担に感じるとき、確かにありますね。
たとえば食べ放題飲み放題などで、好きなものを好きなだけ選べるときは幸せに感じます。

しかし、仕事や進路などで選択権から決断を下すときは、言いようのない不安に襲われます。
選択権と言っても、この両者には大きな違いがあるわけです。
それは、物事の重要度の違いでしょうか? 答えは NO です。
なぜなら、あまり重要でもない?趣味の囲碁でも、両者の違いが存在するからです。
ある人は選択の自由を楽しみ、ある人は選択自体を負担に思っている。

これは面白い発見です。
選択には、幸せに感じる選択と負担に感じる選択の2種類がある というわけです。
この両者には一体どんな違いがあるのでしょうか。

それは、「選択に結果を求めるか否か」だと私は思っています。

結果を求めれば、選択権があることの幸せよりも、決断に迫られる不安の方が大きくなります。
対して、結果を求めなければ、決断は負担とはならず、選べる幸福感が支配するでしょう。

囲碁でも結果を気にし過ぎると、対局が、一手一手が負担になります。
楽しいはずの対局が苦しく感じている方は、もしかすると結果を追い求め過ぎているのかも?
重症になると、選択権自体を放棄してしまいます。
ある者は敵の従者になり、またある者は本や上手(うわて)のいうことを
盲信するようになります。自分で考えることを止めちゃうわけです。
良い手とか悪い手だとかにガンジガラメになって。。。

そんなの「全自動選択機」じゃないかい!  
※はい。このセリフが言いたかったです。

私の結論を言いましょう。

結果はどうでもエエから、さっさと選べい!  (子供みたいに)
それで碁がもっと楽しくなるし、自分で選択した手なら善悪はともあれ
体験的に学習できるから上達も早いよ。 (子供みたいに)

どうせなら幸せな選択にしようよ。選択自体を選択できるのだから。
 注:「幸せな選択のススメ 」 関兵馬著(予定は未定)

結果を気にし過ぎて疲れている方に、私からひと言だけ

「善は二の次。善は二の次。」

 

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